仁徳天皇陵、明治期に「威厳」増幅…列強各国へアピール狙い濠の堤2mかさ上げ
宮内庁は29日、日本最大の前方後円墳・大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵古墳、堺市)を囲む濠(ほり)の堤が、明治期に約2メートルかさ上げされていたとみられると発表した。5世紀頃の築造当初から大幅に改造して古墳の存在感を増したと考えられ、宮内庁は「明治政府が列強各国に対し、日本の天皇制や歴史をアピールする狙いがあったのだろう」と分析している。 【写真】大山古墳(仁徳天皇陵古墳)=読売ヘリから
大山古墳の墳丘は、三重の濠と堤で囲まれている。宮内庁は堤の護岸整備を前に、古墳北西の堤や濠の底など計7か所を発掘調査した。現在はほぼ同じ高さの濠の堤のうち真ん中の第2堤では、築造当初の地表面の上に、江戸時代以降の陶磁器片が混ざった地層約2メートル分が確認された。
宮内庁に残る公文書などから、第2堤の外側の濠は江戸時代に埋め立てられ、明治期に再び掘削されたと考えられている。宮内庁は、この時に掘削した土が、第2堤のかさ上げに使われたとみている。
最も外側の第3堤も同様に土を盛っており、宮内庁の調査担当者は「陵墓を荘厳に見せるため、明治期に整え直したのだろう」と話している。
大山古墳は、2019年に世界文化遺産に登録された「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の構成資産の一つとなっている。