ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (44) 外山脩
カフェー収穫の時、作業場へ犬を連れてきた家族があった。そこへ平野がやってきて、訊いた。 「この犬は君のか?」 「そうです」 「何のため犬を飼っているのかね?」 「日本にいた時も飼っていたので、やろう、という人があるままに貰って育てているのです」 「それだけの理由だね。じゃ、犬が絶対必要というわけでもないんだね」 「まあ、そんなところです」 すると平野は「要らない犬か」と独り言を言いながら、その辺にあった棒を拾い、踊るような格好で犬のあとをつけた。そして、やにわに、棒を頭に叩きつけた。犬は一撃で死んだ。平野は後も見ずに去った。 こういうことを経験したり見聞したりした移民の場合、彼を好いたであろうか……。 平野植民地で既述の大惨事が起きた時、あるいはその後、入植者たちは、平野をどう思っていたろうか? 「病人は、平野が見舞い元気づけると、涙を流して喜んだ」という記録もあるが、それは、この大惨事の責任が平野にあることに気づかなかったためであろう。生き残った者は、やがて気づいた筈である。生残者の多くは、ここを去っている。 平野自身も、自分で自分を責め続けた。そして苦しみから逃れるため、ピンガに頼った。 夜は眠られず、旅行中、宿舎で同室者から、 「眠れぬのか?」 と聞かれると、ピンガを呷りながら、 「どうして眠れるものか、あんなに殺してしまって」 と呻いていた。 周囲の諌止にもかかわらず、ピンガの量は進み、体はブクブク、顔は赤く腫れ上がっていった。南樹は、 「平野は、最後は犠牲者の亡霊に夜毎、魘(おそ)われ、精神分裂症に陥っていた」 と記している。 松村総領事とその夫人に関する話も、単純な美談仕立てで受けとめると、マズイ。松村は着任後、 「今日の如き出稼ぎ移民では、外国移民に伍して発展をなすことは至難事」 と、邦人の植民地建設の必要を唱えていた。 そんな折、偶々、その名を売出し中の平野がサンパウロへ出てきていることを知り、総領事館に招いた。玄関に出て笑顔で迎え、その手を握りしめて、来訪を感謝した。 平野は、これでコロリと参ってしまった。 松村は、彼を総領事室へ招き入れ、植民地建設の要を説いた。平野は即座に決意、行動を開始した。 しかし、その結果、起きた惨劇を知って、松村はどう思ったであろうか。素人の軽率な扇動が大量の死者を発生させたのである。土地代の一部くらい出したからといって、その責任が帳消しになるものではない。 松村が正常な感覚の持ち主なら、後ろめたさを感じ罪の意識に囚われ続けたであろう。 夫人は、それを知っていた筈である。植民地側の借用金返済の申入れに対する返事の手紙も、そういう経緯を念頭に置きつつ読むと、全く別のニュアンスが滲み出てくる。 松村は、人に植民地建設をさせるなら、まず、それに必要な情報を収集、充分な研究をすべきであった。その上で必要な援助を、資金を日本政府から確保して、すべきであった。 そういうことを何もしないで、舌先三寸、煽動しただけなのである。 松村は同時期、平野以外に、長谷川武という人物にも、植民地建設を勧めていた。その長谷川は六人の若者とパラナ州パラナグア湾の湖岸、アントニーナという村へ米づくりに出掛けた。が、マラリアに罹病、全員が引き上げている。 平野には、他にも色々な観方や批判がある。 グァタパラの支配人の地位をイタリア人と争って破れ、それが植民地建設に走る一因になった、と一資料は記している。 また、平野は植民地の開設の折、南樹を二度誘った。が、南樹は乗らなかった。平野の性格に不安を感じていたのだ。 「平野は人を統御する能力はあったが、調査とか研究は一切駄目。訪問者を案内して、森を歩いていて、太い木は全てジャトバと教えた」とも呆れている。 前出の横溝の記録の中にも、次の様な部分がある。 「あの若さで、今日でも難事といわれる植民事業を思い立った勇気は感心の外ない…(略)…その反面、無謀であった。…(略)…僅かな資金と経験で、百家族近い同胞の生命を預かる事業に、衛生、風土病、かつ生産物の捌け口など一切考慮せず…(略)…大植民地の完成を夢見た若気の野望の…(略)…」