終戦79年 ガダルカナル島で戦死した宮城・石巻市出身の天才彫刻家 絶作に託した思い
khb東日本放送
15日で終戦から79年です。将来を期待されながらも31歳で戦死した宮城県石巻出身の彫刻家高橋英吉。最後の作品に託した思いとは。
筋肉に覆われたたくましい肉体。海に生きる漁師の姿です。量感のある肉体表現が印象的ですが、顔つきは優しく、穏やかです。 この像を彫ったのは、石巻市出身の彫刻家高橋英吉です。 英吉の研究をしている石巻市博物館の学芸員泉田邦彦さん。 英吉の作品は活力に満ち見る人を惹きつけると話します。 泉田邦彦学芸員「『夭折した天才彫刻家』というふうに言われていますが、彼が残した作品というのは非常に生命力に溢れていますので、生命と向き合った彫刻家』というふうなことが言えるんじゃないかと思います」 1911年(明治44年)石巻市に生まれた英吉は、中学に入学した頃から彫刻に夢中になり、東京美術学校(現・東京芸術大学)へ進学。 その後、文部省の美術展覧会で2度にわたり入選し、1939年(昭和14年)には「潮音」でグランプリにあたる特選を受賞します。28歳の若さでした。 「潮音」の制作に取り組んでいた頃、当時交際中で後の妻に宛てた手紙が残されています。 そこには彫刻に懸ける並々ならぬ思いが記されていました。 「私には芸術が戦場みたいなものです。―命かけてね」 天才彫刻家として評価された英吉。 結婚し、長女も生まれ、まさにこれからという時。「召集令状」が届きます。 その2カ月後には太平洋戦争が勃発。英吉は、戦地へ赴きます。 行き先は日本の南5500キロに位置するガダルカナル島。2万人以上もの日本兵が亡くなることになる激戦地です。 戦地へ向かう船の中、英吉は、拾った流木に作品を彫り始めます。 12センチほどの小さな像。煩悩を断ち切るよう導いてくれるという「不動明王」です。 釘のようなものをのみとして使い、彫り上げたといいます。 裏には「破邪顕正」の文字。仏教用語で「誤った考えを正すこと」を意味します。 泉田邦彦学芸員「英吉の向かったガダルカナル島の戦いは、非常に厳しい状況でしたので、上官の指示に対して疑問を持ったとしてもやっぱりそれに従っていかなきゃいけない。自分自身の考えを合わせていかないと、精神的に難しい部分っていうのもあったんじゃないかと」 英吉はこの像を従軍記者に託し戦地へ向かいます。 ガダルカナル島への上陸から2か月後。銃撃戦のさなかでした。 英吉は、敵の銃弾に倒れます。 戦友の手帳には「前方の台地で、ガクリと前のめりに倒れたまま動かなくなった」と、その時の様子が記されています。 まだ31歳でした。 不動明王像は、およそ8か月後、戦死の知らせとともに家族のもとに届けられました。 神奈川県逗子市。 高橋幸子さん、英吉の長女です。 1歳で父・英吉を亡くした幸子さん。物心ついた頃には、父の戦死を分かっていたといいます。 高橋幸子さん「『さっちゃんのお父さんは戦死』ってよく私が言っていたっていうんだけど、それは記憶にないけどね。小さいながらね、戦死したのが悲しい出来事っていうのがわかってたみたいで」 幸子さんは版画家として活躍してきました。 父が芸術の道へ導いてくれたといいます。 高橋幸子さん「お父さんの思い出がないだけ、憧れが強かったのかな。(版画は生活の)第一番だったと思います、今考えれば。私は木を通して、お父さんと意見を言い合う場所でしたね」 記者「どんなことを仰ってますか。心の中で英吉さんって」 高橋幸子さん「そこはそこでいいよ、って言ってたと思う。この猫の目線とか」 英吉が家族を思い従軍記者に託した不動明王像。 この像に込められた愛や芸術への情熱は、幸子さんの中で生き続けています。 高橋幸子さん「あと何日生きていられるんだろうと思いながら(不動明王像を)彫っていたと思うんですよ。日本に帰りたかったんだろうなと、それを見るたびに思いました。今までいなかった存在の、普通のお父さんであってほしい。私の心の中には生きています」 英吉の遺骨は今も見つかっていません。絶作となった「不動明王像」には、遺族の様々な祈りや思いも込められています。
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