〈総選挙 私はこう見る〉「どうせ選挙に行かずとも、誰かしらが当選するのだ」 赤木智弘
今回の選挙、圧倒的にしらけムードが漂っている。 前回までの選挙は、自民党 VS 民主党という政権選択選挙であり、そこには曲りなりとも国民の意志がそれなりに反映される状況があった。しかし、今回の選挙には自民党に対抗できる党は全く存在せず、自民党の圧勝は明白である。ゆえに、今回の選挙は自民党に対する信任選挙としか言いようがない。 「×」を書くことしかできず、投票する意義がまったく見いだせない、記載台と投票箱を往復するだけ時間の無駄としか思えない、あの最高裁裁判官国民審査のような虚しい信任選挙である。 これまでの人生でも、僕たちは何度も選択を迫られてきた。 目の前にある選択肢が、いくら自分が全く望まないコップに入った付臭のする汚泥のようなものばかりだとしても、そのうちどれかを鼻をつまんでぐいっと飲み干さなければならない。バブルが崩壊した後に社会人になった僕たちの世代は、そんな腐った選択肢ばかりを押し付けられてきた。望む選択肢がないことには、もう慣れっこになっているし、そのくらいは我慢ができる。 ただ、どうしても我慢ならないのは、そのような腐りきった選択肢を与えながら「お前たちには選択肢を与えたはずだ! それを選んだのはお前だ!! 故にお前の現状は自己責任である!!!」と投げ返す社会の傲慢な声である。嫌で嫌でそれでも仕方なく選択肢を選ぶこと自体が罰に等しいのに、その罰を受けた責任まで背負わされる。そのことにだけは、どうにも我慢がならない。
選挙は選択の場ではあるが、一方でその選択が僕達に良い方向であれ悪い方向であれ、直接的に有効になるわけではない。それはさも首吊り台の作動スイッチのようだ。 首吊り台の作動スイッチは、5つ存在し、そのうち1つだけが実際に作動し、他はダミーだ。そして複数の刑務官がそのボタンを押す。なぜそのような構造になっているかといえば、刑務官の心的影響を考えて誰が実際に装置を作動させたのかを分からないようにするためだ。ボタンを押せば、自分がきっかけかどうかは分からずとも、死刑は実行される。 選挙における投票も似たようなものだ。スイッチと違い、必ず押す必要はないが、どうであれ選挙の結果は決まる。そしてたとえ当選した候補に一票入れようと、そうでない候補に一票入れようと、その結果は全体から割り出された決定に過ぎない。たとえ自分の一票が別の候補に入っていようと、投票に行かなかろうと、その結果は変わらない。 選択は決断を伴う。選挙における決断は、国民主権の核であり、その責任は非常に重いように思える。しかし、現実においては我々の一票はとてつもなく軽く、選挙において我々が負う責任も、本当はその程度のものでしかない。そう考えると気は楽になるが、一方で望む選択肢がない選挙が虚しいことは変わらない。 だからといって、腐っていても始まらない。 汚泥を飲み干し、選択肢を素直に受け入れるふりをしながら、その裏で舌を出してやればいい。 自分の選挙区の候補たちをバカにしながら、それでも幾分かのまともな部分を探し出し、いやいや票を投じてやればいい。当選したら自分のおかげだと自惚れればいいし、落選したら、やっぱりお前じゃダメだったと見下してやればいい。どうせ選挙に行かずとも、誰かしらが当選するのだ。 そうして自分の中で、本当はどういう政策なら賛同できるのかということを、次の選挙までの宿題にしよう。そう考えて、この虚しい選挙を何とか、やり過ごそうじゃないか。 ---------------- 赤木智弘(あかぎ ともひろ) フリーライター。1975年栃木県生まれ。2007年に『論座』(朝日新聞社)に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を執筆。著書に『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』(朝日新聞出版)「『当たり前』をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』(河出書房新社)など。