有安杏果、写真家デビュー ももクロ卒業して見えたもの
とことん気が済むまで作り込みたい
そうやって多忙な芸能活動に追われる中でも、もともと持っていた自己表現への渇望が消えることはなかった。 「小学生の頃から日記を書いていて、それが1日の自分の吐き出し場所でルーティーンになっていて。高学年のとき転校したので、中学では環境が変わってだいぶおとなしくなったんです。ノートにポエムを書くようになって。心の中で思っていることを誰かわかってくれないかな、という思いがあったのかもしれません。仲の良い子ができて、はっちゃけてスカート巻いたりしてた時期もありましたが、2年生になると高校受験を考えるようになって、割とおとなしく頑張っていました」 学業とともに、ももクロの活動も始めたわけだが、やはりそこでも自己表現への欲求が高まっていく。 「グループとしての活動は衣装もセトリもグッズもライブの構成も大人が用意して、自分たちは演じるだけ。でも、途中からソロ活動も始めたのですが、ソロだと『好きなようにやっていいよ』みたいなところが強かったので。BoAさんや絢香さんはじめ、いろんなアーティストに憧れが強かったこともあり、セトリからグッズのデザインまで自分でアイデアを出しました。それで責任感をすごく抱くようになりました。良い反応、悪い評価も全部、私の責任だなって」 そんなこだわりが発露したのが、ももクロ時代最後のソロライブとなった日本武道館でのコンサートだった。 「あのとき、私はもうこれで一生、マイクを持ってステージで歌えないかもしれないと思っていたんです。それで、中1のときEXILEさんのスクール生で初めて武道館にバックダンサーとして立たせてもらったときと同じように、センターステージでやりたかったのですが無理だったんです。でも、どうしてもと思って、反対意見もありましたがエンドステージでも後ろにもお客様を入れたんです。私の背中を観ることが多くなるのですが、それでも360度の客席にこだわらせてもらって。1つ1つのお仕事をていねいに大切にやりたいから、とことん気が済むまで作り込みたいんです」