1969年冬。松本隆が語る大瀧詠一に託した歌詞のこと「永島慎二の漫画が畳の上に転がってたんだ」
大滝さんが居候していたアパートがあった若林
松本 大滝さんとの出会いなんだけど……。 大滝 どのくらい記憶が違ってるか、おれが訂正してやろうか(笑)。 松本 ぼくは覚えてないんだよ(笑)。 大滝 最初は……細野さんの家だったと思うんだよね。 松本 麻雀してたんだっけ。 大滝 いや、細野さんの家に行ったら松本がいた、っていうのが出会いだったんだよ。 松本 大滝さん、なんとなくぼくの前に現れて、いつの間にか同じ場所にいるようになったって感じがあったんだけど。 大滝 大当たり。 ――『松本隆対談集 風待茶房 1971-2004』より 【画像】「何かないと始まらないから、大滝さんとぼくで曲を作ることにしたんだ」 世田谷区若林。三軒茶屋から西へ1キロほど離れたところにある町。 「何度か遊びに来たことがあるんだけど。確か、このあたりだったと思う、大滝さんの下宿があったのは。下宿というか、当時、大滝さんは布谷文夫さん(注:ロックシンガー。ブルース・クリエイションの初代ヴォーカル。大滝さんとはバンドを一緒に組むなど旧友であった)のアパートに居候していたんだ。四畳半にコタツとベッドが置いてあって、歩く隙間もないくらい狭かったのをよく憶えてる」 環七通りから1本中に入った狭い路地。世田谷線の若林駅から延びる商店街を歩く。松本さんは、おぼろげな記憶を頼りに、思い出のジグソーパズルを組み立てている。年季の入った建物の前で立ち止まっては、朽ちかけたピースをはめながら。しかし。 「まるで未知の惑星を彷徨っているみたい」と苦笑い。「来てみれば何か手がかりが残ってるんじゃないかと思ったけれど、半世紀以上も前のこと。わかるわけがないよね」
「松本、俺のところに遊びにおいでよ」
時は1969年秋。松本さんは、細野晴臣さん、大滝詠一さん、鈴木茂さんとともに、新たなるバンド「ヴァレンタイン・ブルー」を結成することになった。 「それまでぼくは、細野さんと一緒にエイプリル・フールというバンドにいて、アルバムも1枚出したんだ。でも、すぐに解散することになって、細野さんが、『小坂忠と一緒に新たなバンドを作る』と言うから一緒にやることにしたんだ。でも、ヴォーカルを担当する予定だった忠が参加できなくなってしまい、代わりに細野さんが連れてきたのが大滝さん。立教の友達に紹介されたらしく、好きなレコードの話で意気投合したというんだ。それから、当時、高校生だった茂を連れてきたのも細野さん。『スーパーギタリストを見つけた』ってさらってきたんだよ。 でも、新しいバンドをやるって決めたのはいいけれど、言い出しっぺの細野さんのエンジンがなかなかかからず、メンバーは揃ったのにオリジナルが1曲もない。何かないと始まらないから、大滝さんとぼくで曲を作ることにしたんだ。『じゃあ、松本、俺のところに遊びにおいでよ』って大滝さんに誘われて。それが12月のある日のことだったんだ」 夜8時。そぼ降る雨の中、大滝さんが居候するアパートへ行くため、当時、西麻布に住んでいた松本さんは、タクシーを拾おうと、富士見坂を上りテレ朝通りに出ると、六本木通りの交差点で立ち止まった。現在の六本木ヒルズがある場所だ。 「反対車線は銀座方面へ行く道だから、タクシーがどんどん通るんだけど、若林は反対方向だからなかなか来ない。ちぇっと思いながら、道路にできた水たまりをぼんやりと眺めていたんだ。行き交う人の姿や街の光を反射するのがきれいだなと思いながら。そのとき、ああ、そうだ、この光景を歌にしよう、と」 大滝さんがいるアパートに到着すると、松本さんはすぐさま詞を書いて渡したという。「この詞に曲をつけてみて」と。 真冬の舗道に 人が行きかい 雨のにおいが あたりにただよう 雨あがりのまちは 風もなくつめたい 白い息がふるえ 心がふれる 凍てついた空を 街影がふちどる ぬれた髪を さあ笑ってごらん