ポスター、選挙公報、政見放送……都知事選「ハック」で問われる日本の選挙
選挙ポスター掲示板枠の「販売」や候補者の大量擁立など、何かと物議を醸した7月の東京都知事選。選挙制度や投票行動に詳しい日野愛郎・早稲田大学教授は、この選挙を「日本選挙史上の汚点」と位置づけ、問題点を洗い出した上で改善案を提示する――。 (『中央公論』2024年9月号より抜粋)
2024年の東京都知事選は日本の選挙史に汚点を残した選挙であった。ポスター掲示板の枠不足に始まり、同一の政治団体によるポスター枠の実質的販売から、選挙と関係がないと思しき一連のポスターの掲示に至るまで、異例づくしの選挙であった。 1925年に男子普通選挙が実現してからおよそ100年が経つが、今回の選挙ほど有権者自身が「あるべき選挙の姿」について考えさせられた選挙はなかったのではないだろうか。 そもそも何が問題だったのか。そして、どのような処方箋が考えられるのか。選挙制度の理念に立ち返り、検討してみたいと思う。
選挙制度が体現すべき三つの理念
開かれており(public)、公平であり(fair)、有権者が正統性を感じる(legitimate)選挙。これらは選挙制度が体現すべき理念である。 開かれた選挙とは政治を志す有為な人材が立候補できる選挙を意味する。目指すべき公職(public office)は、被選挙権を有するあらゆる人に開かれていなければならない。 よって選挙が”open”であることが重要なのは言うまでもないが、ここでは敢えて選挙が”public”なものでなければならない点を強調しておきたい。公職の「公」は、イギリスのパブリック・スクールがどこの地域の出身者にも等しく開かれていたことを意味していたように、その職が誰に対しても開かれたものでなければならないという理念に根差している。そして、選挙が立候補者に開かれているだけでなく、有権者にとっても候補者の情報が開示されていなければならないという点においても「開かれた」選挙なのである。 そして選挙は公平(fair)でなければならない。公平とは、候補者が同じ条件で競い合うことが保証されている状態を意味する。候補者が有権者に訴える機会は平等に確保されていなければならない。実際の選挙では組織力や資金力の差によって戦い方が異なることはあるが、志さえあれば自らの主義主張や人となりを伝える機会が等しく保証されていることに重きがおかれている。 これら二つの理念、つまり「開かれている」という公開性の原則、ならびに公平性の原則は、選挙公営制度の成り立ちと密接不可分に結びついている。選挙公営制度とは、潤沢な資金に恵まれた候補者のみが宣伝できることにならないよう、候補者の主義主張や人となりを伝える媒体を公的に保証することで、選挙活動を補助し候補者を支えるための制度である。公平性の原則を貫くために、公職選挙法ではビラ、葉書の枚数や規格が制限されている。そうした制限のないインターネット上での収益化に伴う選挙ビジネスの課題については追って検討する。 三つ目の理念である、有権者が選挙結果を正統なものと感じることができるかという点は、選挙制度において、最も重要な要素である。誰でも選挙に出ることができ、候補者の情報が広く行きわたっていて、フェアな戦いが行われたと感じるからこそ、たとえ自らが投票した候補者が当選しなくても、その選挙結果を受け容れられる、つまり選挙に正統性(legitimacy)があると感じることができるのである。 この正統性の原則は民主主義の根幹と言ってよい。民主主義はあくまでも期限付きの民意を、当選者である代理人に負託することから成り立っている。選ばれた代理人が一定の期間リーダーシップを発揮できるよう、正統性を付与する機能が選挙にはある。その意味で、選挙は当選者を権威付けするプロセスでもある。それゆえ、選挙は神聖なものでなければならないと考えられる。今回の都知事選はその神聖さが汚された選挙であったと言えるだろう。 総じて、選挙は「公正」であるべきだと言える。つまりは、公開性、公平性を兼ね備えていて、正統性が担保されているという三つの要素が「選挙は公正であるべきだ」という考えに集約されている。公開性と公平性は選挙という車の両輪のようなものであり、その二つが備わってこそ、初めて選挙がまっすぐ走り、正統性が広く共有されるのである。