【新春スペシャル対談】中村俊輔×福西崇史が回顧する「2004年アジア杯中国大会」
不動のボランチとしてジュビロ磐田の黄金期を支え、2006年開催のドイツワールドカップには、日本代表の中心メンバーとして出場。日本サッカーが世界水準へと飛躍していく瞬間をピッチの中央から見つめていた福西崇史が、サッカーを徹底的に深掘りする連載『フカボリ・シンドローム』。 【画像】アジアカップについて語るふたり 第85回は、前回から引き続き中村俊輔氏を迎えての対談「中村俊輔×福西崇史が語るアジアカップ」をお届けする。 シリーズ第2回となる今回は、数々の伝説が生まれた「2004年アジアカップ中国大会」を前に両者がどのような思いで臨み、大ブーイングの中で迎えた大会本番をどう戦ったのか。激闘の始まりを語り合ってもらった。 * * * ■中国大会が最後のチャンスだと思っていた ――今回は2004年中国大会の優勝メンバーであるお二人に当時を振り返っていただきたいと思います。激闘の末、頂点に立った大会でしたが、お二人はどのような心境で大会に臨んでいたのでしょうか? 福西崇史(以下、福西) そもそも海外組(当時セリエA・レッジーナに所属)だったシュンはなんであの大会に参加できたの? 中村俊輔(以下、中村) 当時は大会が7月開催で、ヨーロッパはオフシーズンだったんですよ。だから所属していたレッジーナのキャンプに遅れてでもアジアカップに行きますっていう感じでしたね。 福西 そういうことか。あのとき、海外組はシュンと(川口)能活の二人だけだったよね。海外組が帰ってくると国内組はいつも出られなくて、それに対して不満ではないけど、どこかで彼らを越えなければいけないという意識があるわけ。 でも、そのアピールの場がなかったんだよね。だから中国大会は優勝という実績ができる絶好のアピールの機会だった。国内組はものすごくモチベーションが高くて、優勝することだけを考えていたよね。 ――中村さんはどんな思いで臨んでいたんですか? 中村 自分にとってもアピールの場でしたね。あそこで結果が出せなかったら、もうダメだろうなと思って、相当な思いを懸けて臨んでいました 福西 そんなこと思っていたんだ。 中村 あれがもう最後のチャンスだと思っていましたね。だからチャンスをものにしなきゃって感じでした。 ――中村さんはひとつ前のレバノン大会(2000年)にも出場されていましたが、2回目というところで違いはありましたか? 中村 トルシエ時代は左サイドMFで、自分が一番得意とするポジションではなかったんですよね。でもジーコになって、この中国大会は一番好きなトップ下でやらせてもらえたので、より結果を出さなければという意識がありました。 でも、「結果を出さなければ」という意識はどの大会でもあって、親善試合とかキリンカップとかでもそう。だから他の海外組の選手と比べても代表に合流する頻度は高かったと思います。所属チームからしたら「親善試合なのに行くの?」みたいな感じだったと思いますけど。 福西 海外のクラブのチーム関係者は嫌がるだろうね。 中村 だから代表でいいプレーをして、チームに帰ってきても疲れを見せずにいいプレーをするっていうのが絶対条件。キツかったですけど、代表が自分の中でプライオリティの一番高いところにあったので、行ったからには結果を出したいなって必死でした。