躍進する航空業界に対抗するための「3つの方針」…JRが当時最速級の時速270kmを誇る「のぞみ」を打ち出す陰にあった「衝撃」の戦略
安倍元首相が国士と賞賛した葛西敬之が死の床についた。政界と密接に関わり、国鉄の民営化や晩年ではリニア事業の推進に心血を注ぎ、日本のインフラに貢献してきた。また、安倍を初めとする政治家たちと親交を深め、10年以上も中心となって日本を「事実上」動かしてきた。 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 本連載では、類まれなる愛国者であった葛西敬之の生涯を振り返り、日本を裏で操ってきたフィクサーの知られざる素顔を『国商』(森功著)から一部抜粋して紹介する。 『国商』連載第35回 『「国鉄改革の立役者」葛西が政界を牛耳る「国士」にまでなれたワケ…停滞期にあった東海道新幹線を大躍進させた驚異の手腕とは』より続く
長年のライバル関係
葛西はJR東海の発足後、新幹線の担当役員として東海道新幹線の競争力を強めるべく、三つの方針を打ち出した。一つ目が「航空業界に対抗できる競争力の強化」、二つ目が「新幹線保有機構の解体」、三つ目が「中央新幹線と東海道新幹線による一元経営」だ。三つ目は、リニア中央新幹線への取り組みである。 日本政府は長らく、鉄道と航空、道路をインフラ整備の基軸とし、それぞれを競わせてきた。なかでも運輸省が所管してきた新幹線と航空機は長年のライバル関係にあった。省内でも鉄道局と航空局に所管が分かれている。 1964年の東海道新幹線開通後の70年には、航空局が都道府県に空港を設置すべく、空港整備特別会計を導入した。以来、自民党運輸族議員たちが地元に空港を誘致しようと運輸省の尻を叩いて全国の空港づくりに躍起になる。実際、ピーク時には狭い日本に99もの空港ができ、47都道府県にくまなく航空路線が張り巡らされた。 さらに80年代後半になると、日本の空港ネットワークづくりに応じた羽田空港の拡張計画が持ち上がり、航空業界が活気づいた。
航空業界に対抗
反面、日本全国に空港がつくられれば、東海道だけでなく、山陽、東北といった新幹線の強みが失われる。葛西が「航空業界に対抗できる競争力の強化」を会社の大方針に打ち出した理由もうなずける。 そこで葛西は新幹線の速度にこだわった。いうまでもなく羽田~伊丹間を1時間足らずで飛ぶ航空便に対抗しようとしたからだ。それはのちのリニア中央新幹線の発想に近いようにも感じる。葛西はまず20年以上続いた0系新幹線に代わる100系車両を大量発注した。 民営化時の東海道新幹線は、ひかりとこだましか走っていない。87年の1日当たりの走行で見ると、ひかりが143本、こだまが89本の合計231本となっており、いずれも0系新幹線である。もっとも0系と、民営化後に大量生産される100系の違いは、正面からの見た目を変え、2階建てのグリーン車やグリーンの個室を新たに設置して内装を贅沢にしたというだけだ。この時点では列車のスピードアップはなく、変わり映えのしなかった古臭い車両のイメージが多少新しくなった程度にすぎない。 葛西は88年から「270km/h化プロジェクト」に着手した。88年6月に常務、さらに90年6月代表取締役副社長に出世し、新たな高速新幹線開発の陣頭指揮を執る。 東海道新幹線が大きく変わったのは、2年間の試験運転を経た92年の300系の登場からだ。時速270キロの「のぞみ」が開業した。時速220キロの0系新幹線ひかりに対し、300系新幹線のぞみは、3時間かかっていた東京~新大阪間を2時間半で走行できるよう計算された。92年に1日5本しか走っていなかったのぞみ300系新幹線は翌93年に34本になり、新幹線全体の本数も民営化6年目にして231本から273本へと急増する。のぞみは低迷期もあったが、ピーク時の新型コロナ発生前の2019年には230本に達した。これは民営化時のひかりとこだまの合計とほぼ同じ本数であり、全体で見れば倍増した計算になる。文字通り、通勤電車並みの新幹線運行が実現した。 むろんこれらは葛西が強く望んできたことである。JR東海の総合企画本部長として葛西は羽田~伊丹という航空路線をライバル視し、新幹線をスピードアップした。ドイツで開発された磁気浮上式の高速モノレールをフランスに視察にいったとき、それを着想したのだという。時速270キロくらいなら、日本の新幹線技術でも実現できると聞かされたからだ。
森 功(ジャーナリスト)