ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (66) 外山脩
すると、宮坂は「我々の同胞を見殺しにするのか」と強硬に交渉、遂に資金の引出しに成功する。 これが一九二三(大12)年のことである。 この資金投入には、会社側から条件がついた。宮坂自身が現地へ乗り込み、マニラ麻の栽培を軌道に乗せ、融資を返済するまで留まるというものであった。 宮坂はこれを承諾、かつ、やり遂げた。その実績を評価され、海外移住組合連合会の専務に引き抜かれ、念願のブラジルに赴任したわけである。 大型・最新式の移住地建設を前任者から引き継いだ「ブラ拓の宮坂さん」は邦人社会から、新指導者として強く期待されていた。四十代の壮年期で、短身痩躯であったが、全身に精気が漲り精悍そのものだったという。 なお宮坂は、後に故山県勇三郎と縁戚関係(子供同士が結婚)になるが、山県の夢を引き継いだことにもなる。 次に海興であるが、日本から移民を受入れ、ファゼンダへ送り込む仕事を主業務としていた。その移民は、年々増え続けていた。 一九三二年には一万五、〇〇〇人、ブラジルに入国する外国移民の中では、最多数を占めた。翌三三年には二万四、〇〇〇人、入国する外国移民四万八、〇〇〇人の半数という高率ぶりとなった。 海興は、ほかにも種々の事業を展開していた。 イグアッペ植民地を経営。 パウリスタ線ジャブチカバールにアニューマス農場を開設。独立後の移民に営農技術を指導するためだった。 移民の医療や子供の教育組織・施設を整備。 ブラジル最南端のリオ・グランデ・ド・スール州経営の植民地内に邦人用の区画を確保。同州へ邦人が進出するための拠点づくりだった。 通称エメボイ実習場を設立。日系社会を、それまでの農業中心社会から、商工業分野へも進出させるための人材を、養成しようとしていた。 商事部、銀行部も設立。移民の便宜を図るためである。商事部は日本から雑貨品を輸入、供給した。銀行部は、法的には海興とは別組織のカーザ・バンカリアとして営業した。 海興が最も華やかであったこの時期、その顔的存在だったのが、坂本靖である。歳は四十代で元気溌剌としていた。 坂本は、もともとは陸軍軍人だった。幼年学校、士官学校の出でエリート・コースを歩んでいた。が、小倉師団時代、酒を呑んでは暴れ、憲兵の厄介になった。その時、上官から「貴様のような奴は陸軍大学へは行かせん」と叱責され、退役した。 以後の詳細は不明だが、海興での坂本は、そのリベイロン・プレット時代から資料類に現れる。そこに在った出張所を預かっていた。 当時、日本からの移民の多くは、最初、この地方のファゼンダに送り込まれた。坂本は彼らの世話をよく焼き人望があった。 後にサンパウロへ移り、移民部長や支店長代理を務める。仕事をさせると、切れ者であった。 よく呑み、裸踊りが得意で、軍人であったことから坂本チンダイ(鎮台)と愛称された。 そして東山は、既述の事業の他に、絹織物工場を買収、日本の生糸を輸入して織布から捺染までの一貫生産体制を整えていた。 その東山の顔だったのが君塚慎で、スポーツマンで快活な性格であり、邦人社会、特に青年層に人気があった。青年の間ではスポーツ活動が盛んになっていた。 君塚には、ブラジルに於ける東山の総支配人という肩書がつき、日本本社の重役を兼ねていた。 後にブラジル駐在日本大使になる。 二十五周年 ともあれ、日系社会は活気が出ていた。新時代に入った感があった。 その新時代に形成されている歴史の水流、それは、やがて大河となり、赫々たる光彩を放とう──。そんな前途が、現実味を帯びて想像される様になっていた。 そうした中、一九三三(昭8)年、日系社会は笠戸丸から二十五周年を迎えた。記念行事が各種企画・実施された。 このとき、邦字新聞のブラジル時報が『ブラジル年鑑』、聖州新報が『在伯日本移植民二十五周年記念鑑』を発刊した。その中に四半世紀間の移住、拓殖の両事業の成果が掲載されている。 それによると、一九三二年末までに、日本移民は一一万八、〇〇〇人が入国している。在伯総数は一三万三、〇〇〇人。ブラジル生まれの子供を含んだ数である。