「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶
「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。 良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。 たとえば44年5月28日。部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。 「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日、記した。「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」 教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。 「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。