ダンサーで振付師の真島茂樹さんが急死…「マツケンサンバ」生みの親、亡くなる前日には講演でダンスも
松平健(70)のヒット曲「マツケンサンバ2」の振り付けで知られるダンサーで振付師の真島茂樹(まじま・しげき、本名・真島茂夫=まじま・しげお)さんが22日午後10時38分、虚血性心不全のため死去した。所属事務所が23日、発表した。77歳。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。2004年に日本舞踊をもとに振り付けした「マツケン―」が一世を風靡(ふうび)し、独特なキャラクターで「マジー」の愛称で親しまれた。後日お別れの会を開く予定。 「マツケンサンバ」の生みの親がこの世を去った。関係者によると、22日に自宅で倒れているところを真島さんの知人が発見。すぐに緊急搬送され、懸命な処置が行われたが帰らぬ人となった。松平も病院に駆けつけたが、すでに亡くなっており、突然の別れにショックを隠せない様子だったという。 前日の21日には、栃木県で普段と変わらず元気に講演を行い、ダンスも披露していた。25日には松平とともに京都で「マツケンサンバコンサート」に出演する予定だったが、真島さんの出演部分は構成を変更して対応するとしている。 真島さんは、実家にあった電気蓄音機から流れてくる音楽に合わせて踊っていたことがきっかけで、小学3年生のときにバレエを習い始めた。東京商業高校(現・ドルトン東京学園)卒業後の1972年に日劇ダンシングチームに入団。トップダンサーとして活躍した。 松平とは、日劇が松平が当時所属していた劇団フジと合同公演を行って以来の付き合い。81年に日劇が閉館して以降は疎遠になっていたが、真島さんが通っていた日本舞踊教室の発表会に松平がたまたま見に来ていたことで再会。その日のうちに松平から「マツケンサンバ2」の振り付けを依頼された。「華やかで、ゴージャスで和洋折衷の感じ」との要望を受け、日本舞踊風のサンバが誕生した。 同曲が2004年に発売されると、金色衣装の松平が「[おんぷ]オレ~オレ~マツケンサンバ」と踊りながら歌う姿が大ウケ。バックで踊る真島さんも明るい“オネエ”キャラで大ブレイク。「マジー」と呼ばれ、バラエティー番組に引っ張りだことなり、CMにも登場。年末のNHK紅白歌合戦に出演するなど人生が一変。松平について「僕が一番感謝しないといけない人」としている。 自身のオネエ口調について「バレエを習っていた影響で女の子っぽい言葉遣いになった。踊りの世界は女性が圧倒的に多いから女性の口調が移っちゃう」と明かしている。 著書では「踊りを取り上げられていたらのたれ死んでしまう」と分析。日劇が閉館になり、他のメンバーが一般企業などに就職する中でも「僕は踊ることでしか生きていけない」とダンス以外の道は選ばなかった。以前から「死ぬまで踊り子でいたい」と話しており、まさに生涯ダンサーを貫いた。 ◆真島 茂樹(まじま・しげき)1947年3月22日、栃木・宇都宮市生まれ。小学3年からバレエを習い始める。72年、日劇ダンシングチームに入団。2004年に振り付けした「マツケンサンバ2」がヒット。05年「花吹雪 不夜恋」で歌手デビュー。同年発売の「マツケンサンバ3」でも振り付けを担当。趣味は観劇。身長180センチ。体重70キロ。 ◆虚血性心不全 冠動脈が閉塞(へいそく)するなど心臓への血液の流れが阻害され、心臓に障害が起きる病気。仕事中、歩行中など短時間に容体が急変して突然倒れ、意識がなくなることがある。タレント・前田健さん(16年死去、享年44)や野村克也さん(20年死去、享年84)らがこの病気で亡くなっている。 ◆「マツケンサンバ2」 2004年7月7日発売。累計売り上げ41・1万枚(オリコン調べ)。90年代中盤、松平の座長公演(1部は芝居、2部は歌と踊りのショー)をきっかけに生まれた。1984年の「マツケン音頭」に始まり、「マツケン数え唄」「マツケンマンボ」「マツケンサンバ」などの系譜を継ぐ。OSK日本歌劇団の演出を手がけた吉峰暁子さんが作詞、宮川彬良さんが作曲。松平自らリオのカーニバルをイメージしてスパンコールの着物の衣装を考案した。
報知新聞社