伝説の初代天皇は複数いた⁉ 語り継がれたのはいくつもの伝承をつなぎ合わせた創作?
神を統合し、日本国の創始者と語られる「神武天皇」。神武天皇の伝承にはさまざまな「謎」がある。 ■九州の日向から大和の白檮原(かしはら)までの東征 『古事記』は中巻に入ると、神代巻の神話的要素を継承しながら、天皇の物語を歴史的に展開している。後に初代天皇に即位した神武天皇は鵜葺草葺不合命(うがやふきあわせずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ)との間に生まれた末子(まっし)で、和風諡号を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)という。兄の五瀬命(いつせのみこと)と高千穂宮(たかちほのみや)にいて、天下を治めるのにふさわしい土地を求めて、東方へと旅立つことになる。 一行は南九州の日向を出発し、宇沙(うさ)の足一騰宮(あしひとつあがりのみや)、北九州の岡田宮(おかだぐう)を経て瀬戸内海を航海し、安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高嶋宮(たかしまのみや)へと移り、明石海峡の速吸門(はやすいのと)、さらに浪速渡(なにわのわたり)をぬけ、生駒山山麓の白肩津(しらかたのつ)に船をとめたとある。『古事記』によれば、この間には少なくも16年を費やしたことになる。 白肩津へ上陸しようとしたとき、土豪の登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)から迎撃を受け、兄の五瀬命は敵の矢にあたって負傷した。このため、神倭伊波礼毘古命の一行は和泉の血沼海(ちぬのうみ)へと迂回することを余儀なくされ、そこから海路で紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)まで来た。そのとき、五瀬命は受けた傷が原因で死亡。さらに迂回して竈山(かまやま)から船で進み、熊野の村に上陸している。 その後は、吉野、宇陀、忍坂(おしさか)と進み、多くの荒ぶる神たちや土雲(つちぐも/豪族)を服従させた。そして神倭伊波礼毘古命は畝火山(うねびやま)の麓に白檮原宮(かしはらのみや)を営み、初代の天皇として即位した。これが第一代の神武天皇である。 このような南九州の日向から奈良盆地の南部にある畝火山の麓までの神倭伊波礼毘古命の旅を、一般に「神武東征」と呼んでいる。 神倭伊波礼毘古命の東征は、決して平坦な道のりでなかった。なかでも、強い軍勢をもった登美毘古が気になる。名前の登美は彼が本拠とした地名で、現在の生駒市の北部から奈良市西端部にかけての地域という。また、那賀須泥毘古を『日本書紀』では長髄彦(ながすねひこ)と表記する。これは足の脛(すね)が異常に長いという意味で、先住民であることを表している。 注目されるのは、『古事記』に「邇芸速日命(にぎはやひのみこと)、登美毘古が妹、登美夜毘売(とみやびめ)を娶りて生みし子は、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)[此は、物部連(もののべのむらじ)・穂積臣(ほづみのおみ)・婇臣(うねめのおみ)が祖ぞ]」と記すことである。物部氏は大伴(おおとも)氏とともに古代の軍事をつかさどった強い軍勢をもつ氏族であることが注目される。 ■神武天皇とはそもそも地方の「村」の首長だった? 神倭伊波礼毘古命の説話は豊富で、分量も多い。また、さまざまな内容を含んでおり、それだけに問題も少なくない。 そもそも「神倭伊波礼毘古」の名義が難解である。「神(かむ)」は「神(かみ)」の古形で、「聖なる」というほどの意味である。次の「倭(やまと)」は、奈良県の郷名のひとつであったが、後に奈良県全体を表す「大和国」の意味となり、さらに対外的意識を含んだ日本全体を表す語となったものと思うが、ここでの「倭」は「大和国」の意であろう。 次の「伊波礼(いはれ)」は「磐余(いはれ)」で、奈良県桜井市の中部から橿原市東南部にかけての古地名という。この「いはれ」は「石寸(いはれ)」とも表記し、「石村(いはれ)」の古字である。古くは「村」を「ふれ」とよんだことは神武即位前紀に「村(ふれ)に長(ひとごのかみ)有りて」の用例があり、この「石村(いはふれ)」から「磐余」を「いはれ」とよむようになったと思われる。 一説に「いはれ」は「いはあれ」を約した地名で、「堅固な村」の意とも説かれる。 次の「毘古」は「立派な男性」のことで、ここでは「首長」と解するのがふさわしい。ゆえに「神倭伊波礼毘古」とは「聖なる大和国の磐余の首長」の意となる。 このように述べてみると、「神武東征」という壮大な説話は、大和統一をなした磐余の首長を核に、東征の旅に出た南九州の首長、南紀の熊野の首長など、まったく違う地方の首長3人の伝承をつなぎ合わせたものとも考えられる。 監修・文/三橋健 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部