『哀れなるものたち』 傷口から始まる物語、すべてを体験せよと彼女は言った
誰のものでもないベラ
世界をこの目で見てみたいというベラの欲望。ベラという世界地図。あるいはベラという身体的な日記。ロンドンから出発したベラ・バクスターの物語(原作はグラスゴーが舞台)は、リスボン、アレキサンドリア、パリへと進んでいく。かつて泣き止まない赤ん坊を殴りかかる勢いで威嚇していたベラはどんどん成長している。ダンカンの支配=監禁が及ばないほどの自我をいつの間にか纏っていく。ベラの成長に合わせて微調整されていくエマ・ストーンの演技、衣装の変化がとてもスリリングだ。 そして船は行く。ベラは船の旅で老婦人マーサ(ハンナ・シグラ)と連れの男性ハリー(ジェロッド・カーマイケル)と出会う。この船上のシーンがたまらなく好きだ。偉大なるハンナ・シグラの出演は、本作を撮るにあたって研究されたというライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画へのオマージュでもあるのだろう。愉快で知的な老婦人マーサがベラに決定的な影響を与える。ベラは明らかにマーサに好感を持っている。ベラが初めて知った大人。それがマーサなのかもしれない。 マーサとの出会いによってベラはいよいよ覚醒する。“世界の痛みを背負っている少年”とベラに形容される青年ハリーは、ベラに向かって忠告をする。良識は君を壊してしまうと。良識、あるいは秩序というこの世の“監禁”の枠に収まらないベラ。自我の目覚めたベラによって徐々に“去勢”されかけていたダンカンの威厳、権力はついに失墜する。どこまでも憐れなダンカン。マーク・ラファロの戯画的された演技には風刺画のような滑稽な魅力がある。 ベラの好奇心と向上心は留まらない。それはダンカンのような男性に欠けていることでもある。ベラにとって教養を身につけていく行為は、世界がどのようにできているか、その不平等な仕組みを知ることだ。したがってベラが教養に“監禁”されることはない。ベラの好奇心はむしろ彼女自身を解放していく。 再びヨルゴス・ランティモスの映画における“監禁”という主題が映画に滲みだす。世の中の秩序に従順な生き方を“監禁”された状態とするならば、“監禁”されていた方が生きやすいということになる。たとえそこに重大な欠陥があろうとも、世の中のルールに従っていれば身の安全は守られる。ベラは自らの身体を実験台として、この世界の欠陥、不平等を知り、疑問を日記のように身体に刻んでいく。この点で“親”であるゴッドウィンが自らの身体を実験台にしたのと相似の関係を結んでいる。そしてこのレール=実験や探求から降りた方が、ある意味で楽に生きていけることも知っている。 しかしベラの内なる獣性は人間であること、理性に先立っている。その姿はさながら反逆の象徴、フェミニズム・パンクの闘士のようですらある。パリの娼館で出会った女主人(キャスリン・ハンター)は、かつてベラと同じような理想を抱いた闘士だったのだろう。彼女の全身はタトゥーで覆われている。それは彼女が負ってきた“傷”の歴史なのかもしれない。 『哀れなるものたち』は不当な扱いを受けた女性、母親の人生を生き直す、物語を正しい方向に書き直す娘の戦いの記録だ。ベラ・バクスターというヒロインは、フランケンガールでもマリオネットでもなく、新しい人間の姿なのかもしれない。絶対不服従の精神。私という存在をあなたに許してもらう筋合いなど初めからないのだ。本作の橋の欄干から身投げをするファーストシーンは、撮影の最終日に撮影されたという。エマ・ストーンはインタビューでこのときの感動を涙ながらに語っていた。死から始まった生。ヒロインの身体に刻まれた戦いの記録=傷。誰のものでもないベラの誕生はこの消えない傷口から始まったのだ。
文 / 宮代大嗣