「自分の体の天気予報」で疲れ知らずの毎日を送る 人気パーソナルトレーナーが考える「休養学」
しかし、「結局、私はどっちなのか」ということだけを気にする方がすごく多いのです。運動も休養も、「やれたのか、やれていないのか」という観点でジャッジメントしてしまう。だから、継続できないのだろうと思っています。 「休養学」は、休むだけではなく、養うという意味を問うてくれていますが、私自身は、「休養と同時に活力が湧いてくる瞬間が必ずある」と考えてきました。 本書には、活力を上げる「攻めの休養モデル」について書かれていますが、もう少し深く考えると、どこまでが攻めているのか、どこまでが攻めていないのかという奥行きもあると思います。
私たちは、「攻める」「守る」と区切られると、つい、攻めっぱなし、守りっぱなしになりがちなのですが、実際には、攻めも守りも同時に起きているのです。 例えば、栄養は、食べ過ぎないようにするのと同時に、大事な栄養を摂取する必要もあります。断食中であっても、何かを捨てると同時に何かが入ってくるわけです。 攻めた、守ったと言い切るよりは、「自分は本当にそうしていたかな?」というクエスチョンを自分に与えて、「間」を持たせることが大切です。
そして、守る時は「守りたいから、守っているんだ」という確認を、常に自分に対してしている状態がニュートラルなのだと考えています。 活動している時間、休む時間と区切ってしまわなくても、いつだって休めているし、いつだって動いている。そして、本来は、それを自分が主体的に選択することができるのです。 「貴重な尊い時間を、自分はダラダラして過ごしていた」というような言葉の呪縛も起きていると思います。 私たちは、無意識に何かをしています。でも、そこにフォーカスを当てないで生きることができます。
例えば、「1日ダラダラしていた」と言う人に、本当に自分のことを何も構っていなかったのかと質問すると、「一応、風呂には入りましたね」というような言葉が返ってきます。 傍から見ればそうでもないのに、「1日ダラダラしていた」という思い出にしてしまったのは、その人自身の選択なのです。 「晴れ女」「晴れ男」という言葉がありますが、それは、本人が雨を見ていない、雨が降りそうなところに行っていないという話です。