「もう野球はあきらめて、違う仕事を探したほうがいい...」 コロナ禍の真っただ中で松岡功祐が奮闘した故郷・熊本独立リーグでの日々
「大学や社会人のチームを辞めてきたという選手もたくさんいます。経歴はまちまちで、いわゆる野球エリートはほとんどいない。才能も、完成度という部分でも、強豪大学や甲子園常連校よりも劣っています。だから、よっぽど頑張らないとプロ野球へ行くことはできません」 遠征先まで何時間もバスに揺られ、試合が終わったあとには宿泊もせず、そのまま戻ってくることも珍しくない。トレーニングもコンディション調整も思うようにはいかない。そんな環境で力を蓄え、プロ野球のスカウトにアピールするのは至難の業だ。 「ストレートが速くてもコントロールがない。長打力があってもなかなかバットに当たらない。安定して力を発揮できる選手はほとんどいません。練習に取り組む姿勢を見ていると、『もう野球はあきらめて、違う仕事を探したほうがいい』と言いたくなることもありました」 走攻守が揃ってなくても、何かが突出した選手のほうが可能性はある。 「足が速いとか、肩が強いとか、何か飛び抜けた長所がある選手でないとスカウトの目には留まらない。プロで実績のあるコーチに教わったら伸びそうだという選手でない限り、独立リーグでのプレーはおすすめできません。家庭の事情で大学進学ができないという場合は別ですが」 当然、1年1年が勝負になる。 「プロを目指すのなら、年齢的には26歳まででしょうね。僕はスカウトも長くやったし、明治大学でコーチも務めた。素材という部分では物足りない選手ばかりです。ハングリーさという部分で評価できる選手もなかにはいましたけどね」 高校、大学、社会人で活躍する選手に比べると話題になることは少なく、プロ野球への道は険しい。 「独立リーグのチームからプロ野球に行ける可能性は本当に低いです。プロの選手は毎日、食べ放題、飲み放題、練習し放題ですから。でも、野球に対して真剣で、一発勝負をかけるのなら、独立リーグでプレーするのはアリ。ただ、中途半端な気持ちでは絶対にうまくいかないということだけは心に留めておいてほしい」 独立リーグのコーチをして、気づいたこともある。 「全国には『プロ野球選手になりたい』という子がたくさんいることがわかった。僕は長くその世界にいましたが、やっぱりプロ野球は野球少年たちが憧れる場所なんですね。そういう熱を感じました。 ホークスやオリックス・バファローズと試合ができて、僕も楽しかったですよ。相手チームのスタッフには知った顔が多いですしね。サラマンダーズの選手たちはドラフト指名された選手と自分の違いがわかったんじゃないでしょうか。三軍であっても、やっぱりプロ野球選手はすごい」 2021年9月、シーズンを終えると松岡はサラマンダーズを離れた。80歳を目前に控えて再び、高校野球のコーチに就任することになったのだ。 第15回へつづく。次回配信は2024年6月29日(土)を予定しております。 ■松岡功祐(まつおかこうすけ)1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている 取材・文/元永知宏