憧れ?嫉妬?それともモヤモヤ?なぜ私たちは「東大」に反応してしまうのか【『反・東大』著者に聞く】
「自分は東大を出ていないから」”不公平”を正当化している?
――2021年の流行語大賞にノミネートされた「親ガチャ」という言葉もそうですが、格差を固定化するような言葉が頻繁に登場するようになった気がします。 尾原:「東大礼賛」の空気は、格差の正当化につながる側面もあります。「東大や京大、あるいは旧帝大を出ているからいい思いをするのが当たり前である」という思い込みは、「それ以外の人々は努力しなかったのだから冷遇されるのは当たり前である」という考えにつながります。 教育社会学の研究を見てもわかる通り、子供の学歴は親の収入や文化資本とも密接に関わってくるのですが、それを不公平と捉えさせない装置として、学歴が機能しちゃっている。子供のころからガンガン中学受験塾に通わせて投資した結果も大きいのに、不公平さを感じさせないようにしているというか「しょうがないじゃん、だって東大出てるんだもん」という流れになっている。 逆に東大に推薦入試で入ろうもんなら「ペーパーテストで公正に行われるべき」と非難が殺到する。多くの人たちが東大を内面化しているからあんなに怒るわけですよね。東大にものすごく比重がかかっている、もっと言えば東大入試に比重がかかっているわけです。東大入試を頂点とする大学入試こそが能力を判断する最もフェアな方法だという考え方が、現在の社会秩序を支えているといえます。
「外資系コンサル」「タワマン」…時代によって変わる価値と揺るがない「東大」
――「東大に対する挑戦者の戦いは倒幕運動のようなものであった」と綴られていますが、「倒幕」はこの先あり得るのでしょうか? 尾原:東大の時代は当面続いていくんじゃないですか。ただ、ずっとこのまま強化されていくというよりも、必ず問題や歪(ひず)みが発見され、それを克服するための揺り戻しが起こる、というプロセスが繰り返されると思います。 たとえば、東大の5教科7科目の入試から最も遠い世界が、面接や推薦です。戦後、医学部などのように面接を導入したり、高校の成績を重視したり、推薦枠を設けたりというのは、受験勉強や受験教育がこどもに負荷をかけ過ぎている、ペーパーテストでは測れない部分が多いという反省からでした。しかし、2018年に発覚した東京医科大学の入試における男女差別事件が象徴的なのですが、差別の手段に使われてしまいました。 尾原:また、一つの流れとして推薦入試に対する偏見というのもあリます。特に私立大学で、推薦で入学した学生は筆記試験で入った学生より学力が低いとされて推薦入学者をバカにするような傾向も最近目立っています。 階級文化ではないですが、貧富の差や格差が強まっていけばいくほど、「ペーパーテストは本当に平等なのか? つまり、東大に入るための学力というのは生まれつきとか本人の努力によって得られたものなのか?」というような問い直しはされると思うし、すでにそれは言われていることです。 そういう意味でも、マイケル・サンデルが『実力も運のうち 能力主義は正義か?』のなかで語った「人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ」というのは日本にも当てはまります。それに対してどんな批判が出てどんな形になっていくのか……。「学力とは何か?」という問い直しは遠からぬ将来に来るような気がします。 ただ、「外資系コンサル」でも「タワマン」でもステータスになるものって時代によって揺れ動くけど、東大だけは揺らいでいない。設立以来、人間の格付けの基準として東大合格、東大卒という肩書が機能するのは当分変わらないんだろうなと思います。 尾原 宏之 甲南大学法学部 教授
尾原 宏之