【昭和100年】Z世代が昭和に憧れるのはなぜ?「みんなが同じ歌を口ずさみ、同じアイドルの髪型を真似する」文化背景に一体感のあったころ
普遍性が存在しない社会
こうした状況もあり、今の中高生たちは、他者が持つ趣味に対し大変に寛容です。昔の中高生であれば、みんなの前では言えなかったオタッキーな趣味も平然と公表してしまいます。 明るい女子中高生が、ゲーム・声優・アニメ・アイドルに夢中になっていたとして、何ら違和感はなくなりました。 または、オタク的な趣味を持ったり推し活をしたりする同世代は、もはや全くマイノリティではなく、スタンダードの感さえあるので蔑視しようがないとも言えます。私が中高生だった二十数年前では、とてもではありませんが考えられなかった事態です。 物心がついたころにはSNSがあり、そこにアクセスすれば数多の界隈が目に飛び込んできて、しかもそのどこかに自分も所属するようになる。 いきおい、それぞれの界隈に独自の規範(前提)があって、その界隈だけで通用する論理や事実があるという構図を皮膚感覚で理解してしまう。こうした世界観には、普遍性という言葉は見当たりません。 一方、それは大昔でも同じではないかという疑問があるかもしれません。その共同体だけに適用される規範があり、自ずと共同体のなかだけで通用する真実があるという話は、たしかに以前から今まで、いつの時代でも妥当していたと思います。 しかし、こうした捉え方は、現代を生きる私たちが事後的に見た結果に過ぎません。 共同体のなかで日々が完結していた時代であれば、その共同体が全体(社会)そのものです。しかも、他の共同体の様子をうかがい知り、そして身近に感じることは容易ではありません。 共同体にいる人々からすれば、その規範が全てであって、あたかも普遍的なルールに感じられるわけです。
---------- 物江潤(ものえ じゅん) 1985(昭和60)年、福島県生まれ。早稲田大学理工学部社会環境工学科卒。東北電力、松下政経塾を経て、2024年10月現在は福島市で塾を経営する傍ら社会批評を中心に執筆活動に取り組む。著書に『空気が支配する国』『デマ・陰謀論・カルト』など。 ----------
物江潤