【光る君へ】病気も災害もすべて怨霊のせい 平安時代の常識を紫式部はどう見ていたか
治療薬も予防接種も加持祈祷
日常的な小さな異変まで怨霊の仕業だと考えられたのだから、当然、病気や災害はその最たるものだった。とくに病気は、医学も薬剤も発達していなかったこの時代、重ければ重いほど、生霊や死霊が取り憑いて祟りをなしていると考えられた。だから、最大の治療とは、取り憑いた物の怪を除去するための御払いの儀式、すなわち加持祈祷だった。 当時は疫病がたびたび猛威を振るったので、加持祈祷は頻繁に行われた。「光る君へ」の時代より100年以上前のことだが、貞観4年(862)の暮れから、当時「咳逆病」とか「咳喇」などと呼ばれた咳の出る病気が大流行した。今日のインフルエンザだったようだ。そして、中流から上流の貴族のあいだにも多数の死者が発生し、宮中行事も中止された。 だが、いうまでもなく、ウイルス性疾患の知識など、当時の医師たちが持ち合わせるはずもなく、非業の死を遂げた天皇や貴族たちの怨霊の仕業だと考えられた。したがって、鎮魂のための加持祈祷が繰り返され、さらには、霊たちを慰めるための祭事としての御霊会が行われた。京都の上御霊、下御霊神社の祭礼や、有名な祇園祭などは、それを今日まで伝えているものだ。 また、こうした疫病の流行を予防するためにも、加持祈祷が行われた。当時の貴族たちにとって、病原菌とは怨霊や死霊、生霊だったわけで、それを防ぐためには、いわばインフルエンザの予防接種の代わりに、加持祈祷を繰り返すのが有効だと考えられていた。 「光る君へ」は現在、花山天皇が退位して一条天皇が即位したところだが、一条天皇の時代には年号が、寛和、永延、永祚、正暦、長徳、長保、寛弘と、じつに頻繁に改められた。ほとんどは疫病の流行がきっかけだった。改元もまた加持祈祷同様に、流行り病を鎮め、また予防するためのものだったのである。 有効なのは、お産も同様だった。当時は妊婦が産前産後に命を落とすことが多かっただけに、大事な出産の際には、加持祈祷に万全が尽くされた。たとえば、藤原道長の長女で一条天皇の中宮になった彰子のお産について、『紫式部日記』に記されている。それによれば、ありったけの高僧が伴僧を引き連れて集まり、さらには山々の験者や陰陽師も呼ばれて、みな声がかれるまで祈祷したという。 無事に敦成親王(のちの後一条天皇)が産まれたが、彰子が衰弱しているときも、加持祈祷に頼るばかりで、薬を飲ませたとは書かれていない。