現代ではありえない江戸の裁き…日頃から包丁を持ち歩き傷害事件を繰り返す「歯止めがきかない暴力男」が、軽い罪で出所できた「長崎奉行所の謎基準」
牢屋に入ったものの…
それでとうとう町の住人一同が連判して、甚八の入牢を長崎奉行に請願するようにと、町の乙名である自分にまで連判をもって申し出てきたと本石灰町の乙名・京長太夫が奉行所に申し出た。吟味したところ事実であったので、長崎奉行は申し出のとおり四月一一日、甚八に入牢を申し付けた。 八月八日、甚八の娘である丸山町肥前屋六右衛門抱(雇い主)の遊女・花咲が、父の出牢を長崎奉行に願い出た。だが甚八を引き受ける者がいなくては出牢を許すことはできないとして、花咲の願いは聞き入れられなかった。 しかし長崎奉行所は、甚八は公儀に対して罪を犯したわけではないので、町内の者、あるいは親類に引き受ける者があれば出牢を許すともしている。このことから、奉行所では公儀に対して罪があるかどうかが処罰の基準にされていたことが確認できる。 この後、奉行所の指示に従い町内乙名と同町の者が甚八の引き受けを願い出たことから、これからは行いを慎むようにと厳しく甚八に命じた上で九月一八日、甚八は出牢を許された(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三〇六頁)。 甚八は前科もある上に、今回犯した罪は傷害罪であるから決して公儀の法に触れていないわけではなかった。だがこの程度では奉行が積極的に裁くことはなかったのだろう。 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)