野口五郎、芸歴53年目も「歌い方は今でも分からない」 恩師・筒美京平さんは「僕の気持ちを見抜いてた」
代表曲『私鉄沿線』を「原曲キーで歌えなくなったら歌手を引退する時」
1970年代、西城秀樹、郷ひろみと「新御三家」と呼ばれた歌手・野口五郎が、芸能生活53年目を迎えた。お茶の間ではジョークを連発して周りを笑顔にさせるユニークさがある一方で、音楽に関してはスタジオミュージシャンとしてのストイックな一面もある。プライベートでは長女の佐藤文音さんがピアニストとして活動を始め、ステージ上で親子共演も実現。68歳になった野口は過去を振り返りながら今、何を思うのか。2回にわたるインタビューの前編では「大切な恩師」について語っている。(取材・文=福嶋剛) 【写真】「とにかく美少年」野口五郎、16歳のイケメンショット 撮影は篠山紀信さん「うわ~懐かしい」 野口は率直に言った。 「こういう芸能の世界で生きていると時々、自分のことが分からなくなるんです」 2月で68歳になったが、老け込んだ感じは全くない。 「一般の会社員だと今はだいたい65歳くらいで会社を引退して、のんびり暮らしている人も多いじゃないですか。そう考えたら68歳って結構ジジイですよ(笑)。だから『まだ(現役で)こんなことやっていて良いのかな』と思うことがあります。その反面、『もっと新しいことに挑戦しよう』と考えている自分もいてね。『人生を楽しみたい』という気持ちは変わらないけれど、芸能界っていうのは才能のある人たちが活躍する世界だから、無理してやる世界じゃない」 野口は、「歌手としての最後」がいつ来てもいいと覚悟を決めている 「僕は『私鉄沿線』を原曲キー(Fマイナー)で歌えなくなったら引退する時だと思っています。やっぱり、それぐらい覚悟を持ってやらないとダメなんですよ。デビュー当時、僕は『5年歌えたら十分だ』と思っていたのに、半世紀以上も歌わせていただきました。68歳になって、いつ歌えなくなるかという恐怖と不安はいつもどこかにあってそれと闘いながら歌っています」 今年2月に発売したセルフカバーアルバム『GOROes by my self 2~CITY POP~』では、恩師の故筒美京平さんが手掛けた楽曲を令和によみがえらせた。 「京平先生は文字通り、僕にとって音楽の先生でした。世間では作曲家、アレンジャーとして『稀代のヒットメーカー』と呼ばれていますが、僕にとっての先生はその言葉だけじゃ足りないくらいの方です。歌い手の気持ちを一番理解していたし、いつも僕たちがやりたい音楽を引き出してくれた。音楽の入り口から出口まで完ぺきに作り上げた真のプロデューサーで、今でも先生を超える方はいません。そんな先生と一緒に作った曲を『後世に伝えていきたい』と思って、今回、レコーディングしました」 野口にとって、筒美さんはどんな人物だったのか。思い出を交えて紹介した。 「1970年代は、歌謡曲の時代でシングル曲は時代に合わせた曲を歌っていました。しかし、僕が本当にやりたかった音楽というのはロックやR&B。当時としては、賛否の否にあたる音楽でした。そんな僕の気持ちを見抜いていたのが京平先生です。『アルバムは五郎ちゃんが本当にやりたいもの、五郎ちゃんしかできない曲を作ろうよ』と言ってくださり、70年代後半に入ると、先生とイギリスやアメリカに行って、スタジオで一緒に僕がやりたかった音楽を作る夢がかないました。先生はドラムもギターもサックスも全ての楽器で完ぺきなまでの譜面を書き上げてくださり、僕らはレコーディングに臨みました。そこには世界的なミュージシャンを起用していました。アドリブも少ない中でプロ中のプロのミュージシャンが、先生の要求に『どんな音で返してくれるのか』という化学反応さえ、先生は予測していたんです」