「現実とファンタジーの区別はついている」の危うさ 児童ポルノと実際の加害行為の強い結びつきとは?
児童ポルノの「製造」と「所持」
児童ポルノ禁止法をめぐっては、「児童ポルノの製造や運搬、提供、陳列だけでなく単純所持をも懲罰(ちょうばつ)の対象とするのは、表現者・創作者を委縮させ、文化や自由な表現を後退させるものではないか」という意見がみられます。 1996年の法律施行時には「児童ポルノを所持した者」は懲罰の対象になっていませんでした。2014年に改正されて単純保持についての事項が追加されましたが、その前には賛成派と反対派による激しい意見の衝突がありました。 児童ポルノの製造が懲罰の対象になるということに対して異論がある人は少ないと思います……が、そうでもないようです。製造の現場には被害児童がいますから、製造に携わる者は関わり方に程度の差こそあれ加害者といえます。しかし“表現の自由”として法律で取り締まることに反対する意見があります。 ヘイトスピーチに対しても表現の自由を主張する声は根強くありましたが、2016年にヘイトスピーチ解消法(正式には、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)ができました。他者を攻撃し、貶(おとし)め、その尊厳を奪うことは表現ではなく、暴力です。人に暴力を振るう自由などあっていいはずがありません。 同じく子どもの人生を大きく左右しかねないほどの搾取、加害行為をすることも“表現”とはいえないでしょう。これもまた暴力、虐待行為でしかないことを関わっている人たちはよく自覚しなければなりません。子ども自身が同意していたといっても、その子がこの先受けるであろう苦痛や将来にかけての影響を理解しないままの同意は、真の同意とはいえません。 子どもへの加害行為を前提として製造されたものを流通、インターネットなどで拡散させることもまた違法とされるのは、納得がいきます。一連の流れに関わることは表現でもなんでもないでしょう。
「現実とファンタジーの区別はついている」はホント?
ではそうした児童ポルノを“所持する”ことについてはどう考えればいいでしょう。 単純所持とはその目的が「自己の性的好奇心を満たす目的」である場合に限られています。研究や報道を目的として所持している場合は該当しません。また「自己の意思に基づいて所持するに至った者であり、かつ、当該者であることが明らかに認められる者」のみが懲罰の対象になります。つまり「嫌がらせなどで、その人が所有するパソコンに児童ポルノの動画を入れておいた」などの場合はこれに当たらないということです。 法改正以降、単純所持で検挙される数は大幅に増えています。しかしこれもまた氷山の一角であることはいうまでもありません。 加害者臨床の現場では、単純所持についてはどう捉えているのか。先に結論をいうと、法律で禁止されることは妥当であると考えています。 個人の性的嗜好を法で規制することの是非を問う声があります。児童ポルノの製造が表現の自由なら、所持するのも自由だという主張です。しかし、彼らが楽しんでいるものは子どもの犠牲のうえに成り立っています。そうした児童ポルノに需要があるという前提のもと、また新たな児童ポルノが製造され、被害者が増えます。“個人のお楽しみ”で片づけていい話ではないのです。 「現実とファンタジーの区別はついている。児童ポルノを見ても、実際の子どもに手をかけるなんてことはない」というのは、典型的な認知の歪みのひとつです。自身が子どもに加害行為をしてなくても、それに加担している事実に蓋をしています。 (続)
斉藤章佳