「妊娠を隠して1日20時間撮影」「こげ茶色のオシッコが…」“卵で産みたい”発言は、働く女性の葛藤を伝えたかった【秋吉久美子×下重暁子】
「卵で産みたい」発言の真意
下重 そのあとに、あの「卵発言」があった。 秋吉 はい。仕事を続けながらの妊娠・出産が女性にとってどれだけハードなことか、身をもって感じていましたから。 「できることなら卵で産んでしまいたい。それから3年くらい大事に温め続けて、時間と心に余裕ができてから、落ち着いて育てたい」。――そんな切実な思いを抱いていましたし、当時の社会矛盾に対しても一石を投じたかったんです。 下重 とってもよく分かります、私も長年「キャリアウーマン」をやってきましたから。 31歳でNHKのアナウンサーを辞めたあとは、民放でキャスターの仕事をする傍ら、文筆業にも打ち込みました。もともとは体が弱かったのに、社会人になってからは風邪をひくヒマもないくらい忙しかった。 私は子どもを産まない選択をしましたが、秋吉さんの報道を見て、「卵でなら産んでもいいな」って思えたのよ。 秋吉 第一線で活躍する女性にそう感じていただけたのならありがたい。 どういうわけか、私はいまだに“不思議ちゃん”のような印象を抱かれることが多くって。「卵で産みたい」だって単なる例え話に過ぎませんが、100人いたら100とおりの解釈をされますよね。面白いと言ってくれる人もいたし、「プッツン」のレッテルを貼る人もいました。
「不適切にもほどがあった!」昭和の職場
下重 世間のイメージはさておき、あなた自身はわりと論理的に話すタイプなんじゃないかしら? 秋吉 根はけっこう理屈っぽいんです。ただ、日本における女優さんって「かわいいひと」であることを求められる。男性に脅威を与えたり、コンプレックスを抱かせたりしない、純粋無垢な存在でなくちゃならない。期待を裏切らないために、言葉をぐっと呑み込む場面も少なくありませんでした。 下重 門外漢なので芸能の世界のことは分かりませんが、「女性たるもの、こうであってほしい」という幻想を押し付ける男の人たち、昭和の時代はとにかく多かったですね。 かくいう私もアナウンサー時代、「カワイ子ちゃん」のように振る舞っていたことがあります。仕事と割り切って従順そうに奥ゆかしくしていたらラブレターが殺到した。それが私の本来の姿だと信じ込んでしまったのでしょう。会ったこともない男性から求婚されたことも。 秋吉 いきなりプロポーズとはすごいですね。女優の場合、顔や体が言動と一致しないと仕事は非常にやりにくいのです。私の場合は不一致も甚だしかった。 下重 本当にね、働く女性に対する世間の風当たりは強かったですよ。妊娠中に「そんなでかい腹をして、よく職場に出てこられるな」なんて暴言を浴びせられた同僚もいます。NHKに勤めていた頃の話です。 秋吉 不適切にもほどがある! 下重 今の時代だったら一発アウト、謹慎処分モノですよね。とりわけ自分の言葉を持っている女は周囲から煙たがられました。当時はウーマン・リブ運動の黎明期でもありましたが、現実が理想にまったく追いついていなかったんです。 (第2回に続く) *** 第2回【「どうして女子アナに…」とぼやかれた元NHKアナ 「理想の娘」になれなかったと明かす二人が語った「家族」【秋吉久美子×下重暁子】】では、何十年も前に看取った母といまだ訣別(けつべつ)できておらず、その根っこの部分には「理想の娘」になれなかったことが影を落としているというが――。第一線で活躍してきた二人の「家族」について語ってもらった。 また、第3回【「死んだらどうなるの?」末期がんの母に応えられなかった後悔――いまだに「葬れない」と感じてしまう「娘側の本音」とは【秋吉久美子×下重暁子】】では、看取ってから年月が過ぎた今も「母が本当に死ぬのは、自分が死ぬ時」と語る真意などについて明かしてもらった。
秋吉久美子(あきよし・くみこ) 1954年生まれ。1972年、映画「旅の重さ」でデビュー後、「赤ちょうちん」「異人たちとの夏」「深い河」など出演作多数。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修了。 下重暁子(しもじゅう・あきこ) 1936年生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。民放キャスターを経て文筆業に。著書に『家族という病』『極上の孤独』など多数。 デイリー新潮編集部
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