乃紫が歌う“女の子の心理”と“愛されたい欲” 浜崎あゆみ、倖田來未、西野カナ……歴代歌姫との共通点
「全方向美少女」がTikTokをはじめとしたショート動画を中心としたSNSで大きなバズを起こしたことで、乃紫という名前を目にすることが増えた。TikTokを確認したところ〈正面で見ても横から見ても下から見てもいい女で困っちゃう〉というフレーズに合わせて、あらゆる角度から自身の最も盛れてる表情(もしくは変顔)を映してみせるというのが定番らしい。彼女のインタビュー(※1)を読んでみると、いかに拡散を意識して曲作りをしているかがわかる。実際に同曲はTikTok総再生回数19億回を突破し、「TikTok上半期トレンド大賞2024」のミュージック部門賞を獲得した。 【写真】45歳の浜崎あゆみ、ピンクサングラスとシャネル着こなす上級者コーデ 興味深いのはその“仕掛け”には、ショート動画でいかに使いやすいかというだけではない、SNS時代を生きる“女の子”の心理が見えてくることだ。朝の情報番組で同曲を初披露した際に、スタジオにいたアナウンサーが「女の子ってほんと大変。切なくてかっこいい」とコメントしたそうで、筆者はそれに深く頷いた。 「自分がきれいだと思うこと、そうわかっているとふるまうこと」が当たり前の光景になったInstagram登場以降の“文化変革”(※2)が起きても、それでもぽっかり空いてしまう穴とはなんなのかを乃紫は見据えている。インタビューでは「TikTokで一番バズりやすい動画って、やっぱり美男美女がインカメラで顔を撮って載せている動画なんですね。それがTikTokという文化を作っていて。ルッキズムというか、みんな人の外見が気になるし、自分の外見も気になる。それが詰まっているアプリだと思うんです」(※3)と話していたのが印象的だった。 「全方向美少女」を通して聴いてみると〈愛と妬みを足して嘘と涙で割れば/世にも美しき怪物「女の子」の出来上がり〉〈よく人に好かれます魅せ方も解ってます〉と容姿や女らしさについて冷笑的に語る歌詞が目立つ。それは、近年メディアで繰り返し使われてきた自分らしさを肯定するメッセージに対して、「現実はそうじゃない」と反発するかのようでもある。SNSで回っているあのフレーズには、自身の容姿を自己肯定する痛快さがある一方で、どうしても容姿にとらわれてしまう女性たちの複雑な心情も読み取れるのだ。ユーザーにとってどちらにも共鳴できるものがあったからこそ、あの曲がショート動画を通して拡散されていったのではないかという気もしてしまう。 また乃紫の曲には、恋愛が上手くいっているケースがほとんどない。あらゆる男子を魅了してきた女子の〈まるで歯が立たない〉恋物語「初恋キラー」、恋愛の駆け引きやすれ違いを男女の目線から描いた「ハニートラップ」、ある男性に振り回される女性の苦悩を歌う「ヘントウタイ」など。“どこか自分に自信がありそうで強気だが、本命の相手の前では不器用になってしまう女性”もしくは”小悪魔な女性に振り回される少々弱気な男性”のどちらかが主人公になることが多い印象で、いずれにしても描かれる女性像は容姿や振る舞いに魅惑的なところがある。 そうした乃紫の音楽性は、“自分らしさ”と“世間から評価される女らしさ”の狭間で揺れる女性たちにとって、時にリアルに、時に痛快に、響くものがあるのではないだろうか。ありのままであることが好感を持たれる一方で、結局は“映え”ているものに承認が集まってしまう。そんな矛盾が生じやすい写真/動画特化型SNS時代の若年層にとって、特に共感できるものがあるのかもしれない。 そんな乃紫の曲は世代が異なる筆者から見れば少々斬新で、SNSを通して10代、20代のリアルを見てきた彼女だからこそ作れる、新たな恋愛ソングの形であるようにも思う。 乃紫の曲には〈若者は皆 恋愛依存症〉というフレーズがあるが、そんな“若者”が支持してきた恋愛ソングは時代によって少しずつ変わっていて、彼女は今その変化の一端を担っている。それは女子高生のカリスマとされてきた歌姫たちの恋愛ソングを振り返ってみると、よりはっきりと見えてくることだろう。 たとえば、2000年代初頭に白ギャルブームを巻き起こした浜崎あゆみの音楽性は、「A Song for X X」の〈居場所がなかった 見つからなかった〉という一節に詰まっていた。当時の彼女の曲は、内省的で孤独や焦燥感に満ちている。ラブソングにおいてもやはりそうで、相手への未練というより居場所を失う哀切の方が強く印象に残る。 〈全てのことが 上手くいっている/かのように 見えるよね 真実の/ところなんて 誰にもわからない〉(「appears」)、〈人は皆通過駅と この恋を呼ぶけれどね/ふたりには始発駅で 終着駅でもあった〉(「Far away」)、〈‘MARIA’ 誰も皆泣いている/だけど信じていたい/だから祈っているよ/これが最後の恋であるように〉(「M」)といった歌詞には、ひとり取り残された女性の寂寞としている様子が浮かぶ。そうして孤独について歌い続ける若かり頃の浜崎あゆみの音楽性は、“大人”と“若者”の溝が深刻なものになっていた当時の社会的ムードと重なるものがあった。 2000年代半ばには倖田來未がブレイクして新たな歌姫となるが、彼女の音楽性は浜崎あゆみとはかなり異なるものだった。“エロかっこいい”という強い女性像を印象づけるキャッチコピーとは裏腹に、恋愛至上主義的な女性の心情を描いた倖田來未。〈もし私 この恋が終わり迎えたとしたら/ガラスのよう 砕けてもう戻れなくなる だけど愛してる〉(「愛のうた」)、〈届くかは自分次第なら やってみせるわ/浮いたり 沈んだり 繰り返しても〉(「Butterfly」)、〈ほんのちょっとだけの優しさが/嬉しすぎて 何も手につかなかったり/恋って恐ろしすぎる…〉(「恋のつぼみ」)というように、恋愛の酸いも甘いもどちらも描き、恋人に振り回されることを半ば楽しんでいるかのような”恋する女”の愛らしさを表現した。その傍らで、「めちゃモテ」なエビちゃんOLファッションが社会現象となった時代でもある。それ以前の奇抜なギャルブームからの流れを踏まえると、世間の関心は「自分たちの居場所」よりも「いかに愛されるか」に向いていたのかもしれない。倖田來未の音楽性はそうした潮流の中で上手くハマり、女の子たちの共感を集めていったのだろう。 2010年代になると恋愛描写はさらに色濃くなっていく。それは西野カナが生み出した〈会いたくて 会いたくて 震える〉(「会いたくて 会いたくて」)というキラーフレーズに顕著だ。浜崎あゆみや倖田來未とは違い、もっと“愛情表現が素直な女の子”という印象を彼女からは受ける。〈「じゃあね」って言ってからまだ/5分もたってないのに/すぐに会いたくてもう一度 oh baby/ギュッとしてほしくて〉という「Dear…」といい、〈ずっと正しく優しく扱ってね。〉と女心の扱い方を取り扱い説明書的に綴る「トリセツ」といい、“愛されたさ”を倖田來未よりさらに甘く表現する。 それはあまりにも甘えん坊で素直でかわいらしくて、女性たちの恋人に対する本音が詰まっているかのようでもある。どうやら彼女は、友人などに取材やアンケートをとったうえで歌詞を作り上げた楽曲もあるらしく、だからこそここまで乙女心がストレートに表現できているのかもしれない(そうしたマーケティング作詞法は、乃紫にも通ずるセルフプロデュースの走りであったように思う)。