『Dの食卓』で知られる鬼才のゲームクリエイター・飯野賢治はどのような生き様だったのか? 語り継がれる「エネミー・ゼロ事件」からドリームキャストの功績にいたるまで、水口哲也氏など著名クリエイターから語られる飯野氏の“人となり”とは
2013年に42歳という若さでこの世を去った、鬼才のゲームクリエイター・飯野賢治氏。その没後10周年にちなんだドキュメンタリー映画の公開とトークイベントが、12月16日に東京日仏学院で開催された。 【この記事に関連するほかの画像を見る】 このイベント自体は、日本のクリエイターやアーティストなどに焦点を当てたドキュメンタリー制作チームArchipelが企画した「Archipel Caravan」(アルシペル・キャラバン)のひとつとして、12月15日から12月17日にかけて行われたものだ。 開催期間中は飯野賢治氏のドキュメンタリー先行上映に加えて、没10周年企画の特別展示が行われていたほか、様々なクリエイターによるパフォーマンスやトークセッションも実施された。中でも見応えがあったのが、飯野氏に関する当時の貴重な資料を間近で見ることができた特別展示だ。企画書や開発メンバーに当てた手書きのメッセージなど、普段目にする機会があまりない資料が、ふんだんに展示されていた。 また、飯野氏の代表作でもある3DOの『Dの食卓』やセガサターンの『エネミー・ゼロ』、ドリームキャストの『Dの食卓2』といったゲームも実機でプレイ出来るようになっていた。本稿ではその中から、イベント2日目に開催された「飯野賢治 ドキュメンタリー上映+トーク」の模様をレポートする。 文/高島おしゃむ ■交流のあったゲームクリエイターが自らの言葉で語る「飯野賢治 ドキュメンタリー先行上映」 今回行われた「Archipel Caravan」のメインコンテンツのひとつとなっていたのが、「飯野賢治 ドキュメンタリー」の先行上映だ。本作は元々ウェブ向けの映像として、1年半前から企画がスタートしている。こうしたドキュメンタリー制作では、映像に使用できる素材が少ない場合がほとんどだ。しかし、今回は飯野賢治氏の夫人でもある飯野由香氏から、大量のアーカイブ映像とプライベート映像、ラジオ音源などを提供してもらい仕上げられている。 本作の制作に関わったArchipelのアレックス氏は世代的に『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』など飯野氏の作品で遊んだ世代ではなかった。しかし、ドキュメンタリーを作るための取材を重ねていくうちに、様々な人から同氏のクリエイティブや性格、そして人柄について話を聞いていくうちに、どんどん深掘りしていきたくなったのだという。また、作業を進めていくと取材に応じてくれる人の数も増えていったのだ。 映像作品としては、本人が語る映像をまとめたものというよりも、飯野氏を知る人々が自らの口で語るエピソードをまとめたようなものとなっていた。「出会い」から始まり、「Warp」、「Dの食卓」といった感じで章立てに分かれて全体が構成されていた。 出演陣もかなり豪華で、大量の素材を提供した由香夫人に加えて、同じ時代を生きたゲームクリエイターの小島秀夫氏、西健一氏、上田文人氏、斎藤由多加氏、飯田和敏氏、水口哲也氏や、ピエール瀧さんに浅野忠信さんといった、異なる業界の著名人も出演。上映時間も80分という大作に仕上げられていた。 本稿では、いくつか興味をそそられたエピソードをご紹介する。 由香夫人が飯野氏と出会ったのはパナソニックに就職後、ショールーム配属になったときだった。その当時、パナソニックでは家庭用ゲーム機の3DOを発売しており、ショールームに人々を呼び込むための勉強会が行われた。その説明をするために訪れたのが飯野氏だった。当時は「わっ、この人おもしろい」と思ったと同時に、結婚するような気がすると感じたそうだ。 また、小島秀夫氏も3DOのタイトルを作っていた時期があり、3DO関連の作品に注目していたなかで飯野氏の作品に目がとまった。飯野氏は『宇宙生物フロポン君』などをリリースしたあと、『Dの食卓』を生み出していくことになるのだが、その時期に行われていたイベントで挨拶しにいったときに、小島氏の『SNATCHER』などの作品を遊んでいたといわれたのが最初の出会いだった。 当時は日本のゲームメーカーが海外に向けても発信していくような時代で、クリエイターは企業の中でゲームを作っていた。小島氏は、たまたま分社化されたことで経営者でありながらクリエイターでもあるという時期だった。しかしながら、手本となるような人はいなかった。そのとき飯野氏は、自ら起業してWarpという会社を作っていたので参考にしたと当時を振り返っていた。 飯田和敏氏は、事前になんの情報もなく「朝の8時から晴海で行われる発表会に来てほしい」と言われたそうだ。そこで起きたのが、今も語り継がれることになる「エネミー・ゼロ事件」である。このイベント自体はソニー・コンピュータエンタテインメントが主催した「プレイステーションエキスポ」で、そこで新作の『エネミー・ゼロ』をプレイステーションではなくセガサターンでリリースすることを発表したのだ。 発表後、飯野氏に「どうだった?」と聞かれた飯田氏は困惑しながら感想を本人に返していたそうだ。飯野氏はとにかく思いついたらすぐに行動に出るタイプだったという。 飯野氏との思い出として、強烈なエピソードを披露していたのが水口哲也氏だ。2002年頃に行われたGame Developers Conference(以下、GDC)に行ったとき、その時期はエルニーニョの影響がすごかったそうだ。GDCの会議が終わり飯野氏に会うと「今週末どうしてるの?」という話になり、一緒にサンフランシスコのBig Surに出かけることになった。 車で3時間ぐらいかかる場所だったが、そのときは豪雨で視界もひどかったという。そうこうしているうちに、道路の真ん中に岩が転がっていたり木が倒れていたりするなど、本格的にまずそうな状況になったのだ。そのときにパトカーに止められてBig Surに向かうことを告げると、急いで行けと言われたとのこと。じつははその時点で道路の反対方向は崩れてしまっており、進むことしかできない状況になっていたのである。 このとき飯野氏は免許を持っていないため水口氏が運転していたのだが、隣で音楽をガンガンにかけながら岩などを避ける度に、「さすがセガラリーを作った男だな!」と叫んでいた。それを隣で聞いていた水口氏は「ふざけんなお前」と思いながらも運転しながら、6時間ほどかけてようやく目的地にたどり着くことができたのだという。 その日はホテルに泊まったものの、どちらの方向も道路が崩れて動けなくなってしまう。とはいえ日本には帰られなければいけないのだが、この状況下で早々に道路が復旧することはない。5日ほど経ったときに会社と電話で連絡することができたのだが、当然ながら「帰ってこい」と怒られてしまったため、なんとか帰国しなければいけない状況になった。そのときに思いついたのが「ヘリコプターをチャーターすること」だったのだ。 しかしその料金は、なんと2000ドルもかかってしまうことがわかる。それも現金でなければいけないという厳しい条件であった。カード払いならばともかく現金など持っているわけないと思っていた水口氏だったが、そのとき飯野氏が「ジャジャーン!」といいながら財布を開けると、5000ドルほどの現金を持っていたのである。なんで現金を持ち歩いているのかと聞いた水口氏に飯野氏は「いや、こういうこともあると思って」と返していた。そこでヘリコプターをチャーターすることができ、無事日本に帰ってくることができたのである。 基本的には一緒に旅行などに行くと役に立たない場面が多いという飯野氏だが、最後の最後に切り札を出すという一生忘れることができないとんでもないエピソードが、ほかにもいくつかあるそうだ。 このように、ドキュメンタリーの映像ではほかにも濃厚な話題がぎっしりと詰め込まれていた。 ■飯野氏の「朝5時コール」は有名だった!? 80分にも及ぶドキュメンタリーの上映が終わったあと、作品にも登場していた由香夫人、飯田和敏氏、山田秀人氏、水口哲也氏をゲストに招いたトークイベントが実施された。進行はArchipelのアレックス氏が務める。 アレックス氏: 最初に企画が始まったのは1年半前で、そのとき初めて由香さんにお声がけさせていただきました。没10周年を目指してもうちょっと早く仕上げられたらよかったのですが、単純にウェブに上げて終わりということには決してやりたくなかったので、ギリギリ10周年目の12月になってしまいました。 由香夫人: 当初は誕生日に発表したいっておっしゃってくださっていたのに、そのあとも「ほかにもなにか持っていませんか?」という話があり、本当によくぞ80分で収まったなと思いました。これまでのビデオをすべて部見させてくださいと言われ、まずそれをお送りしました。さらに、ほとんど子どもしか映っていないようなプライベート映像を送ったあとも「ほかにはもうないですか? 諦めていません」と言われて(笑)。 東京FMの番組を録音したデータも60本ぐらい持っていたのですが、それもすべてお渡ししました。私のインタビューも4時間くらい撮ってくださったんですけど、それぞれの方のものもあるので何分になるのかと思っていたら、80分にまとめてくれました。 山田秀人氏(以下、山田氏): 僕が飯野さんと出会ったのは2000年くらいだったので、今回この映像を見て初めて知る一面がありました。僕の中では、まだそこから出てきそうな感じなので、またこのことをネタに話したいなという気持ちです(笑)。 水口哲也氏(以下、水口氏): 考えてみたら、僕と飯田さんが出会ったのも飯野くんが「飯田和敏っていうちょっとおもしろいやつがいてさ、絶対に気が合うから会ったほうがいいよ」と言われたのがきっかけなんです。そういうことをよく言ってくれる人でした。 アレックス氏: 飯田さんは飯野さんと音楽の趣味はあまり合わなかったとおっしゃっていましたね。 飯田和敏氏(以下、飯田氏): そう、だって彼はビートルズが大好きだから。僕はパンクロックが大好きだったので「なにがビートルズだよ!」って言ってました(笑)。今は大好きになっちゃいましたけどね。あと、飯野さんは埼玉出身で僕は千葉出身なんですけど、まず挨拶からディスり合うんですよ。 水口氏: 青山のオフィスは印象的な場所でしたね。川が流れていたり、ししおどしがあったりして。なんで川が流れていたんだろう? 飯田氏: あれは日本庭園です。 水口氏: なるほどね。当時は飯野さんの「朝5時コール」がよくありましたよ。僕はだいたい12時ぐらいまで仕事をしていて、スタッフが帰ってから自分の時間ができるんです。すると朝方近くに飯野さんから電話がかかってきて「なにやってんの? 松屋行かない?」とか言ってくる(笑)。 飯田氏: ありましたね。僕らもイケイケのゲームクリエイターだったから、すべてにお付き合いできるわけじゃなかったけど(笑)。西健一さんや様々なクリエイターが代わる代わる飯野さんにお付き合いしていたという一面のあるのかな。 水口氏: でも、楽しかったんだよな。いつも話をしながら音楽を聴いてさ。僕はビートルズが好きだったから。 飯田氏: 僕も好きですよ(笑)。 水口氏: 飯野さんはだいたい「ポールすげぇ」っていうのが口癖で。 飯田氏: 飯野さんはポールなんだよね。普通はジョンだろうって思うんだけど。そういえばポールのなにがすごいのか激論したことがありましたよ。飯野さんは「(自分は)やっぱりポップスなんだよ」と言っていました。 ■『Dの食卓2』のときはみんな心配していた 水口氏: ビジュアル的にジョンっぽく見えるところがあるのに、そうじゃないところがまたおもしいっていうね。彼の人となりを感じるところだと思います。だから、『Dの食卓2』のときは少し心配だったよね。 飯田氏: 今回のドキュメンタリーのインタビューはバラバラに撮っていたけど、みんなそこを心配していましたね。 山田氏: 僕は初めて飯野氏から電話がかかってきて遊びに行ったのが、青山のオフィスだったんです。まさに『Dの食卓2』の開発初期で「ちょっとやって、なんでもいいから意見聞かせてよ」と言われてやったことがありました。そのときも本当に大変そうだと思ったんですが、でもどこか楽しんでいる飯野さんもいて。 水口氏: 実際、あのころは大変だったと思うんだよ。なにが大変って、今ゲームを作っている人は想像が付かないかもしれないけど、UnityやUnreal Engineなどの開発エンジンがまったくないんです。要するに、ゼロからすべてネイティブで作るわけですよ。それだけでも莫大な時間がかかるし、人が必要だし、コントロールできないものもたくさん出てくるし。 僕らもたぶんそうだったと思うけど「思考や発想はどんどん先に行くのに開発が追いつかない」ということが昔はすごく顕著にあって。彼の思考のスピードや行きたい速さに対して現実的な問題が乖離しすぎた感じが僕は見ていて思いました。 もちろんそれは僕らにもあったんですよね。当時はドリームキャストという新しいハードということもあって、アセットもライブラリーも揃ってない。表現力もそこまでまだ出ない。頭の中には映画のようなイメージがあるのに。 「今回はここまでしかできなかった」というのが僕も多いんだけど、彼もそうとう苦しんでいたと思う。 ■これから起こることは一世一代の大げんか! 語り継がれる「エネミー・ゼロ事件」とは アレックス氏: 飯野さんを語るうえで「エネミー・ゼロ事件」は外せないと思うのですが、今では信じられないことですよね。だって「プレイステーションエキスポ」というソニーさん主催のイベントで『エネミー・ゼロ』をプレイステーションではなくセガサターンでリリースすることを1万人の前で発表してしまうのですから。 飯田氏: あれは本当に大事件だったんです。ソニーの人たちがもう掴みかかる寸前で。会場が晴海の国際展示場だったんですけど、東京湾に囲まれていますからね。それぐらい本当に緊張感があったんです(笑)。飯野さん自身も「これいいのかな?」と直前まで緊張していました。でもまぁ、やるって決めていたんでしょうね。 水口氏: そのときは一緒にいたんだよね? 飯田氏: はい。「8時に晴海に来い」と言われて行ったのですが、僕はなにが起こるか聞かされていませんでした。「これから起こることは一世一代の大げんかだから、瞬きせずに見てほしい」と言われて。今思うとやっぱり不安だったんでしょうね。そのときの僕は味方でもないですし、なんならどちらかというとソニー派でしたから(笑)。 由香夫人: この話を聞くと、ドキドキする(笑)。 飯田氏: 事前に聞いていました? 由香夫人: やっぱり本人が珍しく少し緊張した面持ちだったんですよ。でも私は、そんなことをするとは知らずに「ふーん」と思っていました。でも発表したら会場がどんどんざわざわして、走っている人もいて、「あれれ?」と(笑)。 ■ドリームキャストは飯野氏の功績が大きかった 水口氏: よく戦っていたよね。今でも覚えていることがあるんだけど、セガのドリームキャストをやるときに飯野くんはセガの入交(昭一郎)さんと気持ちが繋がっていて、「なんでもやりたい」とよく言っていました。ある日、僕が会議をしているときに何回も電話がかかってきて「ちょっと来れる?」と言われたので彼の部屋に行ってみたらものすごい量の雑誌が置いてあったんです。コンビニに並んでいる雑誌をすべて買ったくらいの量で、いろんな人の顔が並んでいました。 思わず「なにやってるの?」と聞いたら「この人たち全員がドリームキャストを買って喜んでいる姿を想像していた」と言うんですよ。その日はそこから朝まで話しました(笑)。 ロゴはこうあるべきだ、色はこうあるべきじゃない? 形はこうじゃないとダメだよね、とか。だから僕は飯野くんの功績が大きいと思っています。ドリームキャストっていうネーミング自体も、たしか彼がアイデアを出した気がする。これって結構センシティブな話だけど。 飯田氏: センティブ繋がりでいうと、僕は飯野さんからドリームキャストの起動音を聞かされたんですよ。 水口氏: そうそう、あの起動音を作ったのは坂本(龍一)さんなんだよね。 飯野くんが坂本さんにお願いして作ってもらっていました。今それを聞いて思い出したけど、当時飯野くんが夜中に持ってきたんだよ、そのテープを。その頃のセガって、夜中でも普通にミーティングしてたんで(笑)。今じゃちょっと難しいけど、そうしたところに持ってきて「ちょっと、みんなでこれを聞いてください」っていって。それがそのまま採用されました。 飯田氏: 飯野さんのアイドルはビートルズのポールだったけど、そのあとはずっとYMOだったよね。それでとうとう坂本さんに頼んだわけですよ。ドヤ顔でマウンティングを取りたかったと思うんだけど、残念ながら僕はYMOよりもスターリン好きだから、むしろ敵みたいな(笑)。当然、今は大好きですよ。 由香夫人: 坂本さんの葬儀をするときはどんな曲がいいかって、「僕が絶対やってあげるから」と本人に伝えたそうなんです。そしたら縁起でもないと怒られた、みたいなことを言っていました。 飯田氏: だから飯野さんの葬儀のとき、坂本さんが怒りの弔電をニューヨークから送ってきたんだ。「バカヤロー」って。 由香夫人: 「なんでこんなだらしない死に方をしたんだ。もうすぐしたら俺が行くから待ってろよ」って。 飯田氏: 葬儀のプレイリストが逆じゃないかっていうね。 由香夫人: 本当にそうですよね。 ■転んだときに飯野氏からかかってきた電話で救われた不思議な話 飯田氏: そういえば不思議なことあって、僕が『巨人のドシン』を作っているとき、たしか1999年くらいだったんですけど、ナレーターを男性と女性でふたり使おうというキャスティングが進んでいて、あるタレントさんに決まっていたんですね。その人に思い入れがあったのでその人に合わせてセリフを書いていたんだけど、トラブルがあってその方がどうしても出られないという知らせを聞かされました。 僕もゲームを作っていてそうとう入れ込んでしまっていたから、そこまで決まっていたキャスティングが成立しないとなると「もうこれは無理だ、できない、やめよう。争うしかない」と思ってしまったんです。2億円ぐらい使っていたから。 そのときちょうど幕張メッセで「東京ゲームショウ」が開催されていて、東京駅から京葉線に乗りながら「ああ、もうだめだ」と落ち込んでいました。電車で座っていたのに幕張駅でなぜか足もしびれてきて……。ついには駅のホームで眼鏡が割れるぐらいのレベルでド派手に転んでしまったんです。 そしたらその転んだときに飯野さんから電話がかかってきて「緒川たまきさん紹介するよ」と言われたんです。僕は、困っていることとかキャスティングがダメになったこととか、なにも言ってないのに。 そのとき飯野さんは僕にいちばん必要だった発想、「あの人がダメだったらほかの人の可能性を考える」ということを示してくれました。そこからトントン拍子で緒川たまきさんに決まったんです。 山田氏: もはや緒川たまきさんしかイメージできないですよね。 飯田氏: はい。飯野さんは僕以上に作品のことをわかってた(笑)。 トークイベントとしてはここで終了し、最後に由香夫人から会場に訪れた人たちに向けてメッセージが語られイベントは締めくくられた。 由香夫人: 本日は、お忙しい年末のなかお時間をいただきありがとうございました。高いところからで申し訳ございませんが、お礼申し上げます。こんなにうれしいことはありません。10年も経ってこんなに素晴らしい映像を作っていただき、皆さまと一緒に見ることができて感無量です。これからもどうぞ、よろしくお願いします。
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