〈30年前の9月に〉崔善愛
小学5年のとき、生まれて初めて韓国に行った。初めての「祖国」。父方の親戚が集まった席で、叔母が「日本人と結婚しないで」と唐突に言った。ショックでからだが固まった。私は日本で生まれ、公立小学校に通っていたので友だちは日本人だ。その友人が否定されたようで悲しかった。 父も、日本人と結婚すれば差別され、幸せになれないと、日本人との結婚がうまくいかなかったケースをことあるごとに話した。そんな父に対して、日本に住みながら日本人を愛するなというのは人間を愛するなということに等しい、牧師なのに……、と言い返した。 30歳になり私は日本人と結婚した。父から勘当される覚悟だった。父は私と縁を切るか、それとも結婚を認めるか、その葛藤を日々の祈りに吐露していたと母から聞いた。なぜそれほどまでに日本人を恐れ、不信が消えないのか。どれほどのことをされたというのか。ずっと私は問い続けた。 21歳のとき、指紋押捺を拒否し、私に対する裁判が始まった。植民地支配の象徴ともいえる「外国人登録法」を問うこの裁判で勝訴すれば、日本は変わったと父たちに証明できるかもしれないと考えていた。 しかし地裁でも高裁でも有罪判決を受け、最高裁では1989年、天皇の死去に伴う「恩赦」となった。同じように指紋押捺を拒否し、裁判で有罪判決を受けていた父も私もこの「免訴」を拒否。「外国人」と法的に切り捨てられ、最終的には天皇に「赦される」というこの皮肉。皇民化教育と朝鮮侵略が、天皇の名においてなされた父の時代を追体験することとなった。 裁判は奇想天外な形で終結させられたが、裁判を通して得たのは友であり、良心ある人々の存在だった。 日本人と同じ部屋に寝るのは怖いと言っていた父が94年夏、末期がんを告知された。同年9月1日、父にとって最後となった関東大震災朝鮮人虐殺を覚える「9・1集会」。父は、長く裁判をともに闘った日本人の仲間に駆け寄り、「末期がんになってしまった。これまで一緒に歩んでくれてありがとう」とつよく抱き合い、泣いた。 侵略された中国や朝鮮半島の人々は、いまだ日本をにらみつけるような目をむけるかもしれない。しかしそれでも、ともに時間を過ごし、時間をかけて歩み続ければ、友になれる。
崔善愛・『週刊金曜日』編集委員