光源氏の内に混在する「亡き人への情」と「浮気心」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑨
と、文をしたためた。女のほうから手紙が来るなど、今までにないことだったので、けっして彼女のことを忘れていたわけではない光君は、さっそく返事を書く。 ■逢おうという気持ちはなかったけれど 「『生きるかひなき』とはどちらのせりふでしょう。 空蟬(うつせみ)の世はうきものと知りにしをまた言(こと)の葉(は)にかかる命よ (この世はつらいものだと思い知ったのに、またもお言葉にすがって生きようと思ってしまいます)
あなたのお手紙に命をつなぐとは、頼りないことです」 まだ筆を持つ手も震える光君の乱れ書きは、かえっていとしさをそそる手紙となった。 自分の脱ぎ捨てたもぬけの殻の小袿(こうちき)を、光君がまだ忘れていないのだと読み取り、恥ずかしく思いながらも、女は心をときめかせるのだった。逢おうという気持ちはなかったけれど、こうして心をこめた手紙は送る。冷淡で強情な女だと源氏の君に思われたくなかったのである。 もう一方、あの時碁を打っていたもうひとりの女は蔵人少将(くろうどのしょうしょう)を婿にもらったと光君は伝え聞いた。女が処女でないのを少将はどう思うかと気の毒であり、また、あの女の様子を知りたくもあって、光君は小君を使いに出すことにした。
「死ぬほど思っている私の気持ちはおわかりでしょうか。 ほのかにも軒端(のきば)の荻(をぎ)をむすばずは霧のかことをなににかけまし (たった一夜の逢瀬ですが、もし結ばれていないのであれば、何にかこつけても恨み言など言いませんけれど)」 女の背が高かったのを思い出し、わざと丈の高い荻に文を結びつけ、「目立たないようにね」と光君は小君には言ったが、もし小君がしくじって少将に見つかったとしても、相手が私だと気づけば大目に見てくれるだろうと思っていた。……光君のこういううぬぼれは、まったく困ったものですこと。
■そんな姿も憎めないと思う 小君は少将の留守に文を届けた。女は、光君を恨めしく思ってはいたが、思い出してもらったことで舞い上がり、返事はできばえよりも速さだとばかりに、小君に託す。 ほのめかす風につけても下荻(したをぎ)のなかばは霜にむすぼほれつつ (あの夜をほのめかされるお手紙、とてもうれしいですが、下荻(したをぎ)の下葉が霜でしおれてしまうように、私は半ばしおれております) 字はうまくもないのに、それをごまかすように洒落(しゃれ)た書き方をしていて、いかにも品がない。いつだったか、灯火の光で見た女の顔を光君は思い出す。あの時、慎ましやかに対座していた小君の姉の様子は、今でも忘れることができないが、この女はなんの深みもなく、たのしそうにはしゃいでいたなと思い出すと、そんな姿も憎めないと思うのだった。……と、なおも性懲りなく、浮き名を流しそうな浮気心が残っているらしく……。
次の話を読む:死出の道に向かった女と、新たな旅路へ向かう女(4月7日14時公開予定) *小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代 :小説家