アニメスタジオクロニクル Vol.18 手塚プロダクション 松谷孝征
アニメ制作会社の社長やスタッフに、自社の歴史やこれまで手がけてきた作品について語ってもらう連載「アニメスタジオクロニクル」。多くの制作会社がひしめく現在のアニメ業界で、各社がどんな意図のもとで誕生し、いかにして独自性を磨いてきたのか。会社を代表する人物に、自身の経験とともに社の歴史を振り返ってもらうことで、各社の個性や強み、特色などに迫る。 【画像】松谷孝征氏(他7件) 第18回に登場してもらったのは手塚プロダクション・松谷孝征氏。手塚治虫は1961年に手塚プロダクション動画部(翌年名を虫プロダクションと変更)を設立し、“実験アニメ”や手塚作品のアニメ制作を手がけてきた。もちろん、平行して手塚治虫はマンガも描き続けていたが、さまざまな理由により、1971年虫プロダクション社長を退陣し、虫プロと縁を切り、1968年にマンガ制作のために設立していた手塚プロダクションで仕事を続けることになった。1973年に出版社に勤務していた松谷氏は手塚プロに転職、入社し、1985年から同社の社長を務め今日に至る。また手塚プロを長く支えてきた制作局制作部長の宇田川純男氏、ライセンス部参与の湯本裕幸氏とともに社の歴史とその変遷を辿ってもらった。 取材・文 / はるのおと 撮影 / ヨシダヤスシ ■ アニメ制作にも情熱を燃やしていた手塚治虫 「もともと手塚プロダクションが作られたのは、手塚がマンガを描くことに集中するため。アニメもいずれは作るつもりだったんだろうけど、当初は虫プロダクションへの遠慮もあったのか、しばらく手を出さなかった。それでも1970年前後からTVシリーズの『ふしぎなメルモ』等制作しました。またその他の手塚作品を、他社のアニメ制作会社に許諾していたようです。 その後はしばらくアニメを作りませんでした。1973年、手塚は虫プロダクションと虫プロ商事(手塚作品の版権管理や出版をしていた会社)の倒産もあって大変な借金を抱えており、制作するお金もなかったんです。前年1972年に、僕はマンガ雑誌の編集者として手塚の原稿を受け取りに来ていましたが、虫プロダクションの債権者や、虫プロ商事の役員が何度も来て、大騒動しているのをよく見ていました」 1973年、実業之日本社で手塚の担当編集をしていた松谷氏は、手塚プロダクションに手塚のマネージャーとして入社する。 「手塚は、私を手塚プロに誘うとき、『これからはアニメは一切やりません。マンガだけ描けばお金は入ってくるだけですから』と言っていました」 松谷氏は当時を「どうしようもない状況だった」と振り返った。 「社員は私と資料室の人間と社長と手塚くらいで、マンガの仕事も減っている頃だったのでアシスタントも2、3人いるだけ。会社はいつも閑散としていて、時々債権者や銀行が来るくらいでした。僕が入った年の夏に虫プロ商事が潰れて、11月には虫プロダクションも潰れて。それでも手塚は必死に仕事をして、家まで売って借金を返していました。虫プロダクションなんて、当時はもう関係なくなっていたのに借金の保証人になっていたりしてね。アニメなんて作っていられる状況ではなかったんです。その後、マンガのヒット作も出て大忙しになりました。2年ほどで、何億もあった借金はあっという間に完済しました。 ところがどっこい、『24時間テレビ「愛は地球を救う」』内で放送するアニメの話が来たら手塚は喜び勇んで受けちゃって(笑)。もう、アニメを作りたくて仕方なかったんでしょうね。しかも2時間のTVアニメなんて初めてだし。手塚は初めてというのが大好きでしたから。もちろん本人はそんな顔はしないんですけど、端から見ていて大喜びしているのがわかりました」 1978年に始まった「24時間テレビ『愛は地球を救う』」内の「100万年地球の旅 バンダーブック」で、手塚プロダクションはアニメ制作を再開した。これを機に、同番組内でのアニメ放送はしばらく恒例となる。 「僕は『100万年地球の旅 バンダーブック』にプロデューサーとして関わりました。久々のアニメ制作でしたけど、会社のある高田馬場の近所に住んでいるアニメーターやマンガ家に『先生が久々にやるから』と声をかけたら意外と簡単に人が集まってくれました。小さな部屋をいくつも借りて、みんな寝泊まりして作りましたよ。 それが4年続いたけど、1982年はうちで作れなかったんです。その頃は久々のTVシリーズとして『鉄腕アトム』の第2作も制作していて、24時間テレビのほうまで作るのは無理だった。それでも24時間テレビには1989年の『手塚治虫物語 ぼくの孫悟空』まで断続的にですが作らせていただきました」 ■ 制作拠点の完成、その直後に迎えた手塚の死 1985年、松谷氏は手塚プロダクションの社長に就任する。そしてアニメ制作を本格的に再開した同社は、1988年に手塚プロダクションの制作機能を集中させた新座スタジオを完成させた。 「もともとは別の社長がいたんですけど、その方はだいぶお年だったので、実務的な部分は僕が入社直後から社内の何から何まで見ていました。そんな流れで仕事をしていたので、自然と社長をすることになったんですけど、何か特別に展望みたいなものはなかったです。手塚の創作姿勢を間近で見ていたので、それをもっときちんと手伝わなければいけないという気持ちがあったくらいで。 その頃の手塚プロダクションはマンガもたくさん描いていたし、アニメ制作もあるので高田馬場周辺に5、6カ所の部屋をスタッフ用に借りていました。でも手塚が、1週間に1度しか家に帰らないとは言え、住んでいる東久留米から高田馬場まで車で来るのが大変だと言って。だからどこか家の近くにスタジオを作ってほしいと頼まれ、僕が一生懸命空きビルを探して作ったのが現在の新座スタジオです。ここなら手塚の家から15分くらいで来られるし、周りは森に囲まれていていい感じだし。まあ今はたくさん家が建っちゃったんですけど(笑)」 しかし手塚の意見もふんだんに取り入れ完成させた新座スタジオに、彼自身はわずかしかいられなかった。胃ガンのため1989年2月に死去したのだ。 「手塚は1988年3月にガンが見つかり、手術をして新座スタジオに来られるようになったのがその年の6月くらい。でも11月末には入院してしまったので、スタジオにいたのは5カ月程度です。 当時の手塚プロダクションでは複数のアニメの企画が走っていました。手塚の遺作となったのはすでにマンガのあった『ジャングル大帝』、あとは『青いブリンク』と『手塚治虫の旧約聖書物語』。『青いブリンク』は手塚がシリーズ構成だったけど、途中で寝たきりになっちゃったから演出家を連れて来て6話までの構成と終わり方を直接聞き出しました。 日本とイタリアの共同制作だった『聖書物語』は全26話あるのは決まっていたけど、完成したのはパイロットフィルムとして制作されていた第3話だけ。残りは何もできていなかったので、イタリアからスタッフがわざわざ日本に来て、『せめてタイトルだけでも』というから手塚が26話分のタイトルをあっという間にスタッフの目の前ですらすらと書きました。それでもすべてできあがって放送されたのは1997年です。 シリーズ作品を3本も抱えている手塚が途中でいなくなっちゃうんだから、あの頃は本当にドタバタしました。僕も『手塚のアシストをするのが仕事だ』と思っていたからもう会社を辞めようと考えていたんですけど、とてもそんな状況ではなくって。『せめてこの3本だけきちんとやって……』なんて思いながらズルズルと続けていたら今に至っています」 制作のキーマンであり象徴でもあった手塚の死。この転機に手塚プロダクションは方針転換を行っていく。 ■ 「おにいさまへ…」で出崎統がやって来るという大転機 ここからは、当時の制作現場により深く関わっていた2人の話も交えながらこれまでの歩みを振り返っていこう。1988年に入社した製作局制作部部長の宇田川氏と、1993年に入社したライセンス部参与の湯本氏だ。 「先生が亡くなって、手塚プロダクションは解散するものだと思っていましたよ。中にいる人間としては。先生の原作が新たに生まれるわけでもないし、先生がいなくて誰が企画を立てるの、という思いもあったし」(宇田川氏) 「会社で多くの人を抱えていたので、できればそこで解散できるとすごく楽だったんだろうけどね(笑)。でも手塚がいたら手塚作品をやらなきゃいけないけど、こうなったら手塚作品以外でも下請けでもなんでもいいからみんなが生活できるようにがんばってほしいと言ったんです」(松谷氏) こうして手塚プロダクションは初めて手塚の関わらない作品を手がけることに。そして1991年、池田理代子が1974年に週刊マーガレット(集英社)で連載した少女マンガ「おにいさまへ…」を原作とするアニメが放送される。宇田川氏は、この作品が手塚プロダクションにとって最大の転機だったと語る。 「先生が亡くなってから制作された最初の作品である『三つ目がとおる』は、手塚マンガが原作なのもあって新しく監督さえ来れば社内でこれまでと同じように作れるだろうという感触がありました。しかし松谷社長に話が来てアニメ化することになった池田先生の『おにいさまへ…』はこれまでと毛色が全然違っていた。どうアニメ化すればいいか現場が悩んでいるときに、縁あって出崎統が監督として来てくれることになりました。 出崎さんは『ガンバの冒険』や『あしたのジョー1・2』などで名を挙げていた業界内でも異質の演出家で、『そんな大天才がうちに来るの?』と驚きました。僕は出崎番としてよく話を聞いていましたが、出崎監督はもともとマンガ家志望でしたが、虫プロに入社して映像に関わることにより、そのほうがより自分を表現できるということでアニメの道に進み始めたんです。そんな彼が『おにいさまへ…』で監督をしてくれたおかげで現場は相当締まりましたし、無事に作れたおかげで自分たちもいろいろなことができる可能性をみんなが感じるようになりました。 その後も出崎監督は手塚プロダクションに所属して、『ブラック・ジャック』や『聖書物語』の監督など、さまざまな作品の監督をすることになりました。特に『ブラック・ジャック』は大切な作品で、有名なマンガなのでずっと前からいろんな企業からアニメ化の話を頂いていたものの、どこかうまくいかなかったようです。でも『出崎さんがやるなら』ということでOVAでの展開が実現した。これはすごく大きかったです」(宇田川氏) ■ 手塚治虫生誕100周年、そして初のオリジナル作品に向けて 手塚作品以外も手がけるようになり、アニメスタジオとしてリスタートした手塚プロダクション。同社は2000年代に突入すると、さらに制作するアニメの幅を広げる。 「手塚プロダクション本体には営業部がありましたけど、スタジオとしては制作機能だけしかなく営業活動をしていませんでした。そのため本社にアニメの話が来た作品を我々が制作するという状況が続いていたんです。でも『ASTRO BOY 鉄腕アトム』が放送された2003年くらいでアニメの話が来なくなって。そのときに社長としてはアニメ制作をやめるという選択肢もあったかもしれないけど、僕らも会社にいたいから『自分たちで営業してでもアニメをやりたい』と言って営業するようになりました」(宇田川氏) この努力が実り、手塚プロダクションは2007年以降「もっけ」や「源氏物語千年紀 Genji」「坂道のアポロン」など多彩な作品の制作に参加することになる。 「僕ももともとは制作として働いていましたけど、営業として動くようになりました。例えば『もっけ』は当時MAD HOUSEの社長だった丸山正雄さんに会いに行って紹介された話で、MAD HOUSEが請けたものを手塚プロがグロス受けしていました。しばらくはそうしたいろんな会社の下請けみたいな状態が続いたんです」(宇田川氏) 「そういうスタイルだと、共同制作とは言え手塚プロダクションの名前はあまり表に出ないんですよ。その内、手塚プロがアニメ制作できることを知らない人も増えていました。 2014年くらいには『ヤングブラック・ジャック』というマンガのアニメ化の話が本社のほうに来たんですけど、その時点ではどこが制作するか決まっていなかったらしくって。そこでうちでもできることを伝えたところ、TBSのプロデューサーさんが『手塚プロダクションさんってアニメスタジオを持ってるんですか?』と驚かれて(笑)。そんな流れでうちが久々に元請けとして同作を作ることになりました」(湯本氏) こうして2010年代後半の手塚プロダクションはTBSで放送された「だがしかし2」や「五等分の花嫁」などを元請けとして制作する。近年では「マイホームヒーロー」や「アンダーニンジャ」、そして「ザ・ファブル」などダークな側面を持つ青年向けマンガをアニメ化。特に「ザ・ファブル」では「装甲騎兵ボトムズ」などで知られるベテランの高橋良輔監督を起用し、独自の存在感を放っている。 「最近のキャラクターものと言われている作品がアニメ界では主流になっていますが、それだけでなく社会性があるものをやりたいという思いがあって。会社としてもそういったテイストのほうが描きやすいので意識的にやっています。 髙橋良輔監督はもともと虫プロ出身の方だし、僕は2004年の『火の鳥』の頃からはずっと週のうち何日かは一緒にいるという縁がありました。髙橋監督も松谷社長の1つ上で80歳を超えていますから、『最後に何かやったほうがいいんじゃないですか? もう作れなくなっちゃうかもしれませんよ(笑)』なんて口説き落として『ザ・ファブル』をやってもらえることになりました」(宇田川氏) このように60年以上の歴史の中で、手塚プロダクションのアニメ制作は変遷をたどってきた。そして今後は、同じようにさまざまな作品を手がけていくのは変わらないものの、初心である手塚作品を世に広めるという思いを体現する傾向が強まっていくようだ。 「2028年には手塚の生誕100年を迎えるんです。それに向けてまた手塚作品のアニメをやるために、今はいろいろ仕込んでいます」(松谷氏) 「うちは手塚作品のアニメをやるためのスタッフを維持することが目標だと、僕は考えています。もちろん弊社以外の会社に任せても手塚原作のアニメを作ることは可能でしょう。でも先生が亡くなったあとに、その遺志を継いで出崎さんや髙橋さんといった虫プロで先生が直接教えた弟子達が監督として手伝ってくれたりして、その元で人材が育ってきているうちに次の手塚原作アニメをやりたいんです」(宇田川氏) 「なぜアニメ化するかというと、やっぱり手塚作品を多くの人たち、特に子供に読んでいただきたいから。手塚治虫が伝えたかったこと……命や平和の大切さ、戦争の悲惨さ。そういったものをみんなに伝えるのが手塚プロダクションの役割だと思っています」(松谷氏) 「手塚先生の作品は700以上あって、それらをアニメ化していくというのはもちろんやりたいです。それともう1つ、手塚プロダクションとしてのオリジナル作品を作るチャレンジもしたい。そうでないと手塚プロである意味がないと思っていて。高橋監督は日本で一番オリジナル作品が多いんですけど、手塚先生から『あなたも私と同じ創り手でしょ。好きなことをやりなさい』と言われてその思いを受け継いだとおっしゃっています。その精神性は継承していきたいですね」(宇田川氏) ■ 松谷孝征(マツタニタカユキ) 1944年9月24日生まれ。実業之日本社にてマンガ編集者を経験し、1973年に手塚プロダクションに入社。手塚治虫のマネージャーを務める。1985年4月に同社代表取締役社長に就任。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「三つ目がとおる」「青いブリンク」「ブラック・ジャック」などを手がける。