東出昌大「この先、生きていけなくね?」──そんなとき“救い”になった2冊とその理由
生きる意味はないけれど、なぜ生きるのかといえば
<Letter No.14 生きる意味、自分の存在理由がわかりません。東出さんも生きづらい時期があったと思うのですが、その時に読んで救われた本を紹介ください。> 東出 「生きる意味」はない、というのが僕の暫定的な立場です。それは自分がひとり死のうが世界はほとんど変わらないから。人類の歴史、全生物の命、地球が誕生してからこれまでの時間で考えると、 自分が生きてようが死んでようが差異はない。残酷なようだけど、そんなもんです。 人間以外の生きものは、おそらく生きている意味なんて考えない。生きている意味がなくても、生きようとするのが、動物です。 そう言われても、生きる意味や存在理由への問いが止まらないなら、さっきの相談の続きじゃないけど、利他にすがればいいんじゃないかなと思います。 誰かのために何かする。人に感謝されると気持ちいい。そうやって「やってよかったな」と満足できることが、幸せってことなんだと思います。でもここで、他人の感謝に執着してしまうと疲弊してしまう。 「個は個である」と思いながら、利他の精神で生きる。そこはバランス感覚といったら身もふたもないけれど、自分が他者のために生きている状況に、どれだけ充足しているか。自分の心と体にちゃんと目を向けつつ、利他的に生きれたらいいですね。 ――「東出さんも生きづらい時期があったと思うのですが」という箇所はいかがですか? 東出 相談者さんの言っている「僕が生きづらかった時期」と「生きる意味」は、全然違う話です。 僕は以前「おまえの人生、もう詰んでるぜ」と仕事関係者に言われたことがあった。内側から湧き起こる「生きる意味」への疑問と向き合うんじゃなくて、外側から僕の生を否定されていたんです。生きる意味っていうか「この先、生きていけなくね、これ」って状況ですよね。こんななかでもどうやったら前を向けるのか。そういう悩みでした。 ――そんな状態でも、本は救いになりますか? 東出 なりましたよ。本はめっちゃ読んでたんです。いまパッと思い出したのは、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』と、五木寛之さんの『大河の一滴』ですね。 ――『夜と霧』は、ユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルが、強制収容所での体験を書いたノンフィクションです。 東出 この本でフランクルが書いていたのは、人間のしぶとさでした。不衛生な環境で、寝れないし、食えない。それでも働かされる。そんな極限状況でも、絶望せず、希望を見出すのが、人間だと。フランクル自身あんな過酷な状況を経験したのに、「人間に無理はない」と書く。「マジかよ。人間ってそこまでしぶといのか」と奮い立たされました。 ただ、他者のつらい体験を読むことで勇気をもらうことが、倫理的にどうなんだという点は悩みました。いまのところは「過去の出来事ならばいい」という結論にひとまず至っています。同時代で苦しんでいる人の体験を、自分の生きるエネルギーにするのはダメだろうと。これはまだ考え続けている問題ではありますけどね。 ――『大河の一滴』はいかがでしたか。 東出 一人ひとりの人生なんて大河の一滴でしかない、と言われて、自分がちっぽけに思えて、むしろ生きるのがラクになりました。 五木さんは少年時代に朝鮮にわたり、戦後引き上げてきた方ですが、そのときに見た、人間の汚い部分を書いています。子どもたちがかじっているパンを奪い取る大人の姿を思い出し、生きるのに必死なとき、人がかくも残酷になると。 ところが、そんな地獄を経験した五木さんですら、最近はイタリア料理屋でオリーブオイルの質をあれこれ話していると、いまの我が身を振り返るんです。この振り幅というか、人生を測るものさしのスケールの大きさにも、圧倒されました。 これは書けるかわかんないですけど、この相談者の方は、断食とかしてみるといいかもしれない。食べずに数日過ごして、腹が減りまくって、そこで、「もうダメだ!」と米を食べてしまったとき、どんな感情になるのだろうか。 そこでわかるのは、生きる意味じゃなくて、結局のところ、生きようとしてしまう自分の命のあり方なんじゃないかな。
安里和哲