野村監督「秦と古田どっちを使う?」 名将に生じた迷い…助けを求めた“意外な人物”
燕・野村克也監督が誕生した1990年に古田敦也が入団…師弟関係が始まった
野村克也監督はヤクルトを率いた9年間で4度のリーグ優勝と3度の日本一を成し遂げたが、その象徴的存在だったのは古田敦也捕手だろう。守っては“ID野球”の要として投手陣を好リードで盛り立て、打ってもプロ2年目に打率.340で首位打者に輝くなど、球界を代表する名捕手だった。そんな古田氏について元ヤクルト打撃コーチの伊勢孝夫氏(野球評論家)は、1990年の米国アリゾナ州ユマでの出来事が印象深いという。 【写真】新庄監督、古田氏らが出席 野村克也氏をしのぶ会の様子 1990年はヤクルト・野村監督の1年目であり、トヨタ自動車からドラフト2位で入団した古田捕手のプロ1年目だ。ユマでの春季キャンプについて、伊勢氏はこう話す。「あれはキャンプの最後の方。ノムさんに『おい、古田はどれくらい打てるか』って聞かれたんです。『打率2割5分くらいじゃないですか、ホームランは打っても10本くらいでしょう』って話したのを覚えています。ノムさんは捕手で秦(真司)を使うか、古田を使うかずっと迷っていたんです」。 そこでこんなことがあったという。「あの時、ユマにアトランタ・ブレーブスのベンチコーチだったパット・コラレスが臨時コーチで来ていて、最後のクールに彼に決めさせようってなったんです。『あなたが監督だったら、キャッチャーは秦と古田のどっちを使う?』と聞いたら、コラレスは『古田』って言ったんですよ。それはノムさんの頭に残ったと思いますよ」。 野村ヤクルトの1戦目となる1990年4月7日の開幕・巨人戦(東京ドーム)のスタメンマスクは秦が被った。一方の古田は開幕4戦目・4月11日の中日戦(神宮)の6回から秦に代わって守備に就いたのがプロ初出場。初のスタメンマスクは4月28日の巨人戦(神宮)までずれ込んだが、その後、レギュラー捕手の座を獲得した。伊勢氏は「ユマでパット・コラレスが『古田』って言っていたから、“古田で行こう”となったと思います」と言う。そしてこう付け加えた。 「ノムさんは古田に配球とかを徹底的に叩き込みましたね。試合中もベンチでずーっとしゃべっていましたから。もう守りに行かなきゃいけないのに、古田もじーっと座ってね。ノムさんも話をやめようとしない。アンパイアが来て、ようやく『ああそうか』って。ノムさんは、もう周りが全然見えていなかったですね」。伊勢氏はそんなやりとりをベンチで間近に見ていたし、内容も聞こえてきたという。