プロパガンダか異文化との「架け橋」か モスクワ発の日本語放送を担った日本人の肖像
静かで理性的な筆致
毎日新聞の青島顕記者は、なぜモスクワ放送を取材しようとしたのでしょうか。 【青島顕さん】 1966年静岡市生まれ。91年に早稲田大学法学部を卒業、毎日新聞社に入社。西部本社整理部、佐賀、福岡、八王子、東京社会部、水戸、内部監査室委員、社会部編集委員、立川などでの勤務を経て、現在東京社会部記者。共著書に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』。本書が初の単著となる。開高健ノンフィクション賞の選考委員、歴史学者の加藤陽子・東大教授は「書き手の静かな理性の膂力に触れた読み手の心は、快い驚きに満たされずにはいられない」と評した。 1983年にサハリン沖のソ連領空で、大韓航空ボーイング747型旅客機がソ連軍の戦闘機にミサイルで撃ち落とされる事件が起きました。日本人を含む乗客と乗員269人全員が死亡。冷戦下で起きた悲劇的な事件でした。青島さんは当時高校生でした。 (プロローグより) しばらくたったころ、夜、家に帰って何気なくラジオをつけてダイヤルを回すと、ニッポン放送の周波数(1242キロヘルツ)の近くから、日本語が聞こえてきた。 「……わが国の……南朝鮮の飛行機の飛行を妨害した問題で……」 モスクワ放送のニュースの時間のようだった。 (中略) そういった国の見解を、日本人が放送しているらしいことが気になった。いったいどんな人が、どうして――。 謎は胸にしまわれ、その後、それを解く鍵が近づいたことが何度かあったのに、自覚しないままに40年近くの時が過ぎた。
戦争、亡命、シベリア抑留
モスクワ放送はどうして始まったのか、青島記者は取材を深めていきます。最初のアナウンサーは、福岡県の添田町出身の緒方重臣さんでした。この方は当初、名前もわかりませんでした。また、女優の岡田嘉子さんも、ソビエトに向けて国境を渡り、モスクワ放送で話をしていました。 いろいろな方々の人生が、戦争を背景にして動きます。ソビエトに抑留されてしまった人たちがそのまま残ってモスクワ放送に携わったり、日本陸軍の余りの酷さに亡命してしまった元軍人だったり、いろんな方々がいます。 (プロローグより) 体制が違うその国に行けば、自分らしく生きられる。もしかしたら、日本をよりよく変えることができるかもしれない。かつて、そんな夢や希望を抱いた日本人がいたことを知った。実際にそこで生きていくことは容易なことではなかった。一度や二度でなく、「こんなはずではなかった」と思ったに違いない。それでも、心の奥には「志」があった。その人たちのこと、考えていたことを記録することには、きっと意味があるはずだと思うようになった。