足利義昭は「織田信長に屈した軟弱な将軍」ではなく「信長・秀吉を手玉に取った最後の足利将軍」【イメチェン!シン・戦国武将像】
室町幕府最後の将軍として知られる足利義昭(あしかがよしあき)。織田信長に踊らされ、信長の傀儡(かいらい)だったイメージが強い義昭だが、実はそうではなかったようだ。 足利義昭(義秋)は、織田信長のお陰で室町幕府第15代将軍職を継ぐことができたがその後、信長とぶつかり合い「打倒信長」を旗印に様々に足掻(あが)くものの、ついには敗れて京都から追放され、将軍家を潰した軟弱な「最後の将軍」というイメージが定着している。 本当にそうだったのだろうか。 実は、義昭は征夷大将軍という権威を知り尽くし、利用し尽くした男であった。その権威を持たない(持てない)信長と、それに続く豊臣秀吉は、義昭の手玉に取られ続けたのだった。逞しく生きた「戦う将軍。義昭」でもあった、という新しいイメージが、近年は提示されている。 義昭は、第12代将軍・足利義晴(よしはる)の2男として生まれたが、長男・義輝(よしてる)が13代将軍職を継ぐことが決まっていたことなどから、幼い頃より仏門には入っていた。しかし、義輝が三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らによって暗殺されると、還俗し近畿周辺の大名に庇護(ひご)を求めた。最終的には信長に救いを求め、信長の力を借りて京都に入り、征夷大将軍の座に座った。 これは、新興勢力として急激に力を付けていた信長にとっては、京都に入る名目になった。つまり義昭と信長双方にとってメリットのある関係といえた。2人の共通項は「天下静謐(天下を平和状態にすること)」であり、信長は、これによって「天下人」に近づくことになったからだ。もっともこの時点の「天下」とは、京都と周辺の畿内を指す。なお、各地の大名が支配する領地を「分国」という。つまり「天下」と「分国」とは、明確に区別され、棲み分けられた領域概念であり、戦国時代はそうした領域概念が当たり前だった。 将軍となった義昭は、紙切れ1枚の力をよく知っていた。紙切れとは、御教書(足利将軍家からの公式の命令書)・御内書(非公式の命令書)をいう。各地の大名は、こうした紙切れ1枚で右往左往した。信長は、これに業を煮やして何度も止めさせようとしているが、義昭は密かに武田信玄や毛利元就、上杉謙信らに送り続けた。義昭は、表面上は信長にも阿諛追従(あゆついしょう/媚びへつらうこと)しつつ、実は掌の上で転がしていたのである。だから簡単に掌返しもやった。 信長は、これに気付かずに義昭の掌に乗せられていたにすぎない。義昭は信長によって京都から追放されたが、室町幕府が滅亡した訳ではなかった。義昭は、流遇しながら山口・鞆まで行き「幕府御所」を維持し、全国の大名に1枚の「紙切れ」を出し続けた。 やがて信長が本能寺で横死し、秀吉の時代になる。義昭はしぶとく生き延びた。信長からも秀吉からも求められた「源氏の証」や「将軍位」を決して譲ることはなかった。義昭は2人ともに「どこの馬の骨とも分からぬ輩」と内心は馬鹿にしていた。しかし、秀吉の時代になってから、征夷大将軍の位を返上して、准三后(太皇太后・皇太后・皇后)の三宮に准する待遇 となる。 義昭は慶長2年(1597)8月に病死するが、天下の英雄たちを手玉にとって生き抜いた人生を「面白おかしく生きた、我が生涯に悔いはない」としてあの世に旅立ったに違いない。
江宮 隆之
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