観戦歴64年!立教大卒の徳光和夫さんが語る箱根駅伝の魅力「変化から不変」「日本人の文化そのもの」100回大会も沿道で応援
第100回大会を迎える箱根駅伝を前に、特別な思いを持つ著名人の方々にインタビューした。今回はフリーアナウンサーでタレントの徳光和夫さん。箱根駅伝を愛して止まず、沿道で応援していることでも有名だ。60年以上も学生たちを見守ってきた徳光さんに、箱根駅伝に対する思いを聞いた。 【写真】徳光和夫さんが見惚れた山梨学大・古田の走り
箱根を見始めたきっかけは立教大の同級生
――箱根駅伝を見るようになったきっかけを教えてください。 徳光 僕は立教大に入った18歳の時に茅ヶ崎に引っ越しました。自宅から自転車ですぐのところが箱根駅伝のコースで観に行くようになったんです。 大学に入るまではまったく知らなかったです。立教大に入って仲良くなった運動部の同級生がいたんです。体型もそれほど目立たなくて、まったく地味だったんです。何をやっているのかなって。 そうしたら、新聞に彼の名前が出ていたんです。豊田(多賀司)君というのですが、彼が出るのだったら、と応援に行ったのが最初です。1960年の第36回大会(※豊田は4区で出場)からですから、観戦歴は64年になりますね。 ――それから箱根駅伝に魅了されたわけですね。 徳光 茅ヶ崎のお正月といえば箱根駅伝。みんなの楽しみなんですよ。朝8時半くらいから大移動が始まって、国道134号線沿いに行くんです。巨人の開幕戦よりも楽しみですね。往路は3区、復路は8区を観に行きます。なぜか、往路より復路のほうが、選手が速いように感じるんですよ。 当時はテレビ中継がなかったので、ラジオを聞きながらでした。選手を待っていて、目の前を一瞬で通り過ぎていく。ちなみに、日テレのテレビ中継が始まったのが1987年ですが、それを仕掛けたのが、日テレの坂田(信久)という男で、彼は同期入社です。本当に誇らしいですよ。 テレビが始まってからは、選手を応援したあと、自宅に帰ってテレビを見る。すると、だいたい遊行寺の坂になるのですが、あんなに颯爽と走っていた選手がヘロヘロになっている。まるで別人。それが本当に不思議で、どんどん魅了されましたね。 箱根駅伝は2区や5区、6区に注目が集まりますが、8区は“つなぎ区間”とはいえ、監督の戦略によっていろんな選手を用意するので、レースとしてはすごくおもしろい区間なんです。 ――その後、アナウンサーとなられてから、沿道でプライベート実況する姿が有名になりました。 徳光 とにかく長嶋茂雄さんの一挙手一投足を伝えたいという一心でアナウンサーを目指したのですが、箱根駅伝を実況したいとは思ったことがなかったですね。当時はラジオしかなかったですし、完全に“見る側”でした。 野球中継を断念して音楽番組などにシフトしていきましたが、そのままスポーツ中継を志していれば、もしかしたら実況していたかもしれませんね。アナウンサーの仕事に就いてから、選手の出身校や特徴を調べて、沿道で勝手に話すようになったんです。 ――特に印象に残っている選手や場面は? 徳光 山梨学院大の古田哲弘選手ですね。1年生(第73回大会)の時に8区を走った選手ですが、丸刈り頭のルーキーが、私の目の前で4人を抜き去ったんです。区間記録(1時間4分05秒)も最近まで残っていましたよね。野武士のように輝いて見えました。 うれしかった出来事が一つあります。ある大会で、順天堂大のジープに乗った澤木(啓祐)さんが拡声器で「イチ、ニ、イチ、ニ」と声かけしている時に目が合ったんです。そうしたら「あ、徳光さん」と言って、また「イチ、ニ、イチ、ニ」と。あれは僕の宝物です。 ――ご自身で実況してみたいと思ったことはありませんか。 徳光 現実味がなくなった今だからこそ、やってみたかったなという思いはありますね。僕は仕事柄、アナウンサー目線で見ることもありますが、河村(亮)には本当に参りました。彼のような表現は僕には絶対にできない。とても耳に残る声なんです。だから、亡くなった(※22年5月に他界)のは本当に悔しい。今後、河村にあこがれてアナウンサーを目指す人が現われていってほしいですね。