激しく揺れる高台の庁舎 1995年1月17日未明、「震度6」は32分間正式発表されなかった あの日の神戸海洋気象台
気象庁が観測史上初めて「震度7」と判定した阪神・淡路大震災は、その後の地震観測や情報発信の転換点にもなった。混乱する被災地で日々の気象観測や予報にあたり、災害情報を提供し続けたのが神戸海洋気象台(現・神戸地方気象台)だ。JR元町駅(神戸市中央区)から北西へ約1キロ、市街地を見下ろせる高台に庁舎はあった-。(紺野大樹) 【写真】セピア色の家族写真が語る、98年前の大震災 94歳女性が祖母から伝え聞いた被災体験 ■午前5時46分 回線に障害、正式発表は32分後 激しく揺れた瞬間、壁のモニターに数字の「6」が表示された。1995年1月17日午前5時46分。「震度6」は当時、震度計で計測できた最大震度である。 3人の当直者のうち、測候課の春海孝さん(64)は午前3時の観測業務を終えた後、1時間ほど仮眠し、すでに目を覚ましていた。「ドン!」という衝撃に続いて大きな揺れに見舞われる。ロッカーが倒れ、山積みの書類が散乱する。パソコンのケーブルが引きちぎられ床に投げ出される。配水パイプが断裂したのか、天井から水が噴き出した。 直後、机の上の電話が鳴った。「6です!」。受話器を取った別の当直者が壁のモニターを見て叫んでいる。相手はNHK神戸放送局の記者だ。震度を確認する電話だった。 午前5時50分。NHKだけがテレビとラジオの近畿ブロックの放送で、神戸の「震度6」を速報する。メディアが阪神・淡路大震災を報じた一報だった。 ◇ 気象台の南側、一段下がったところに5階建ての職員宿舎がある。予報課長の饒村(にょうむら)曜さん(73)は布団の中で直下型地震だと判断した。新潟県出身で、中学生のとき、最大震度5を観測した新潟地震(1964年)を経験している。 饒村さんの部屋がある4階はちょうど気象台の敷地と同じ高さで、窓から非常電源に切り替わった照明の明かりが差し込んでいた。 「マスコミが殺到するだろうな。自分が対応することになる」。饒村さんは明かりを手がかりに背広を着て、ネクタイをつかんだ。部屋を出た饒村さんは、ラジオを聞きながら気象台へ向かう。午前6時ごろのことだ。 「震度5、京都、彦根、豊岡。震度4、岐阜、四日市…」。アナウンサーが各地の震度を読み上げるが、神戸が出てこない。 気象台に着いた饒村さんは真っ先に、春海さんに尋ねた。 「神戸の震度が出ていない」 「いや、出ているはずですよ」 実はこのとき、通信回線の障害のため、本来は自動で入電されるはずの震度情報が、大阪管区気象台や気象庁に伝わっていなかった。正式発表がないため、NHKも「震度6の地域はなかった」と最初の速報を取り消している。 神戸海洋気象台は無線通信を使って大阪管区に連絡する。気象庁が神戸の「震度6」を正式発表したのは午前6時18分。地震発生から32分がたっていた。 ◇ 饒村さんは職員に対応を指示する一方、フィルムカメラで庁内や外の様子を記録し始める。 午前6時過ぎ、気象台から南西の方角にレンズを向けた。天候は曇り。暗闇に小さな火の手がぽっ、ぽっと2カ所で上がっているのが見える。 神戸・長田が燃えている。