慶大アメフット66年ぶりの優勝と甲子園ボウル出場機会を逃す!
3本のタッチダウンをマーク、この試合でも、118ヤードを走ったエースの李は、「負ける準備をしていなかったのですぐには、みんなにかける言葉も涙は出ませんでした。でも、監督やヘッドコーチの話を聞いているうちに悔しさで涙が出てきた。僕自身は、張られていた(マーク)し、パスを通す手段で良かったと思うし、出し切ったが、チームとして自分たちらしさを出せなかった。自分たちのフットボールを信じれば勝てると思っていたのですが……」と、冷静に答えた。 3年時には日本代表にも選ばれた李は、名古屋の南山高校から慶大にAO入試(多様な能力を評価)で入学。「甲子園ボウルに出るために慶応に来た」という。李の入学と同時に、慶大ユニコーンズは指導体制を一新。リクルート・シーガルズでコーチとして日本一を経験しているデイビッド・スタント氏をヘッドコーチに招いた。現在はオフェンスコーチだが、李はデイビッドとの出会いに「日本一になったコーチに教えてもらうようになって、甲子園ボウルが現実的な目標になっていた」と、振り返った。 そして4年間と共に戦った仲間たちのことを語り始めると、突然言葉につまり、目に手をやり「誇れる仲間だった。勝たせてやれなくてごめん……」と号泣した。 確かなコーチングと選手個々の能力が融合してチームは4年目に大きく開花した。李が説明するように、基本技術をおろそかにしないというフィロソフィーがチームに根付き始めていた。それが慶応ボーイたちに泥臭い勝利への執念を植え付けた。66年ぶりの甲子園ボウル出場に王手を賭けることになる本当の勝負がかかった試合でのプレッシャーに潰されての敗戦は、チームに無形の財産をもたらしたことは間違いない。 しかし、その経験の積み上げと同時にチームは、来季、李という絶対エースを失うことになる。 久保田監督は課題をチームメンタルと言ったが、個々のサイズも、フィジカルも、シーズンを戦い抜く選手層もスタミナも、まだ日本一を語るには足りないものばかりである。 それでも李は「フットボールで一人の存在は大きくない。大丈夫です。6連勝したことで、これまではなかった勝つ文化が生まれた。フットボールにひたむきになれる環境を作った。この意思をつないで欲しいと思う」と、後輩たちに果たせなかった夢を託す。 1947年に開催された記念すべき第1回甲子園ボウルの優勝チームが慶応だった。再び開きかけた扉をもう二度と閉じさせてはならない。それは長い歴史を知る全慶応OBの願いでもあるのだろう。