神号「東照大権現」をめぐって対立した天海と崇伝
一部始終を見届けた家康は戦場を去り、二条城に戻った。この後、家康はしばらく二条城を拠点として、秀忠(ひでただ)や公家などとの会談を行なっている。 同年7月7日、秀忠は諸大名を伏見城に集め、金地院崇伝(こんちいんすうでん)の起草した「武家諸法度」を申し渡した(『駿府記』)。これは家康の命によって崇伝が起草したもので、つまりは武家として生きるための掟のようなもの。続く13日には公家を招いて「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を発布している(『駿府記』『言経卿記』)。 翌1616(元和2)年1月21日、鷹狩に出ていた家康は腹痛を訴え、医師の診察を受けている。家康の発病については、この時に豪商・茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の勧めで鯛の天ぷらを食べたのが原因とする説があるが、詳細は不明である。翌日には回復し、25日に駿府に戻った(『本光国師日記』)。 家康の病は2月には京に伝わり、後水尾(ごみずのお)天皇は同月11日に治癒祈願の祈祷を命じている(『中院通村日記』)。なお、この頃、家康が医師の投薬を受けず、自らの手製の薬ばかりを飲んでいることを心配した秀忠が、手製の薬を家康に止めさせるよう医師に命じている。これに激怒した家康が医師を配流処分にしてしまったという逸話がある(『本光国師日記』『寛政重修諸家譜』「亘理文書」)。 いずれにせよ、この頃の家康の体調は徐々に回復していたが、本人には思うところがあったようで、「この煩いにて果てると思う」との言葉を残しているようだ。 同年4月2日、家康は本多正純(ほんだまさずみ)、南光坊天海、金地院崇伝を呼び寄せ、遺言を残した(『本光国師日記』)。内容は「死後に遺体は駿河久能山に葬り、葬礼は江戸の増上寺で行ない、位牌は三河の大樹寺に立てること。一周忌が過ぎたら、下野国日光に小堂を建てて勧請せよ。関東八州の鎮守となるであろう」というもの。 家康の体調はその後、回復と悪化を繰り返したが、同14日には「今明日中に他界なさるべきの由」が伝えられた。同17日午前10時頃、家康は死去(『本光国師日記』『徳川実紀』)。死因については、先の天ぷらを食した記述などをもとに、かつては「食あたり」とする説もあったが、現在では胃がんとする見方が有力だ。 同20日、駿府城(静岡県静岡市)で家康の神号をめぐる論争があった。「明神」を主張する金地院崇伝と、「権現」とすべきという南光坊天海との論争で、最終的には、父の帰依した天海の意見を取り入れるべきと秀忠が決断を下し、家康は「東照大権現」として祀られることになった(『本光国師日記』)。 家康の死から2か月後、家康が晩年まで最も重用した家臣の本多正信も、不帰の客となった。
小野 雅彦