小田急線「成城」駅周辺、かつては神奈川県だった 東急の廃線「砧線」の謎から見えた意外な歴史
もう、そんなに経つのか――。横浜高速鉄道みなとみらい線との直通運転開始にともない、2004年1月末に東急東横線の横浜―桜木町間が廃止になってから、2024年で20年となった。 【写真や図で解説】二子玉川―砧本村(きぬたほんむら)間2.2kmを結んだ東急砧線とは? 東京と横浜を結ぶインターアーバン(都市間路線)である東横線に廃線区間ができたというのは、やや驚くべき出来事だったが、実は東急には廃線になった先輩路線が存在する。玉電の愛称で親しまれた東急玉川線である。 玉電は、かつて渋谷―二子玉川園(現・二子玉川)間を結んでいた路面電車である。1907年4月に開業した玉川電気鉄道がそのルーツであり、1938年4月に東京横浜電鉄(現・東急)に合併された。そして、戦後の高度経済成長期にモータリゼーションの波にのまれ、1969年5月に廃止された。
■砧を通らなかった「砧線」の謎 この玉電にはいくつかの支線が存在した。後に東急世田谷線となる下高井戸線のほか、天現寺橋線、中目黒線、後に大井町線に編入された溝ノ口線、さらに二子玉川―砧本村(きぬたほんむら)間2.2kmを結んだ砧線である。 今回、着目するのは砧線だ。同路線は関東大震災翌年の1924年3月に開業。震災からの都市復興のために大量に必要とされた多摩川の砂利を採取・輸送するとともに、旅客輸送も行った。
この砧線の廃線跡を地図でたどってみると、ある疑問がわく。現在の地図を基準にすると、砧線が走っていたのは、世田谷区玉川・鎌田にまたがるエリアであり、まったく砧を通っていないのだ。 砧の名を冠する都立砧公園が位置するのは、1km近く離れた東名高速道路の北側であり、砧という町名(字名)のエリアはさらにその北側、小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅南側一帯である。さらに世田谷区の砧総合支所も、都内有数の高級住宅街が広がる成城学園前駅の近くにある。
これはおそらく、地名の変遷によるものだろうと推測はつくが、『新修世田谷区史』であらためて調べてみると、興味深い事実を知ることができた。その概略は以下のとおりである。 ■神奈川県だった三多摩地域 明治維新から間もない1869年、現在の世田谷区域の村々は、新設された品川県または長浜県(発足当初は彦根県)に編入された。長浜県に編入されたのは彦根藩の所領(飛び地)だった村である。 ただし、これは旧藩を温存した体制下での暫定的な措置であり、1871年7月に断行された廃藩置県とその直後に行われた府県統合の過程で品川県は廃止。長浜県所管の飛び地は東京府または神奈川県に引き渡されることになった。