スペインの巨匠、ビクトル・エリセ監督が31年ぶりの新作『瞳をとじて』に注ぐ魂の言葉とは
いまもなおタイムレスな名作として多くの映画ファンの“人生ベスト”に選ばれている『ミツバチのささやき』(73)や、『エル・スール』(83)で知られるスペインの巨匠、ビクトル・エリセ監督による31年ぶりの新作『瞳をとじて』が2月9日(金)に公開される。 【写真を見る】当時5歳だった『ミツバチのささやき』から50年…ビクトル・エリセ最新作に出演を果たした俳優、アナ・トレント 第76回カンヌ国際映画祭のカンヌプレミア部門で発表された本作は、「エリセの切実で完璧な帰還」(VARAETY)、 「30年以上待つだけの価値ある傑作」(eCartelera)と評されるなど、絶賛を集めた。本稿では、エリセ監督自身が綴った貴重な本作のディレクターズノートを、新たに解禁となった場面写真と共に紹介する。 エリセは1940年スペイン生まれで、現在83歳。寡作で知られる映画作家で、今回の『瞳をとじて』が長編4作目となる。彼が生まれた1940年はスペイン内戦直後、フランコ政権が始まったばかりの時代で、幼いころから独裁政治を体験してきた彼にとって、その要素は切っても切れないものだ。1973年に発表した長編第1作目の『ミツバチのささやき』では、スペイン内戦後の世界を舞台に少女の幻想と現実が交錯するファンタジーを描き、世界的に高い評価を獲得。日本では発表から12年経った1985年にシネ・ヴィヴァン六本木で公開され、(同年には続けて長編2作目の『エル・スール』も公開)同館で記録的な動員数を打ち立て社会現象を巻き起こし、当時のミニシアター・ブームを象徴する作品として多くの映画ファンに愛された。 そんなエリセ監督の最新作は、元映画監督と謎の失踪を遂げたかつての人気俳優、2人の記憶を巡る人生と映画の物語だ。映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が失踪。22年後、当時の映画監督でありフリオの親友でもあったミゲル(マノロ・ソロ)は失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材をとおして青春時代を、そして自らの半生を追想していくミゲルだったが、番組終了後、「フリオによく似た男が海辺の施設にいる」という情報が寄せられ…。 今回解禁されたディレクターズノートでは、自身の作品について多くを語らないことで知られるエリセ監督が、本作のアイディアの根源やメッセ―ジ、映画への愛を明かしている。「プロットの細部を積み重ねた果てに、この映画が観客に向かって描こうとする物語は、密接に関わる2つのテーマ“アイデンティティと記憶”を巡って展開する」と説明。そのテーマを描こうと考えた理由については、「私は映画の脚本を、自分で書いている。だから、私が人生において最も関心を抱いていることが、作品のテーマだと考えるのは自然なことだ」と自身の経験が基づいていることを明かすなど、エリセによる映画作りの裏側を想像させる内容となっている。 解禁となった場面写真には、未完成の『別れのまなざし』のフィルム缶を見つめる主人公のミゲルや、失踪した元人気俳優フリオの娘、アナの姿も。アナを演じるのは、エリセ監督のデビュー作である『ミツバチのささやき』で、撮影当時5歳にして監督に見出され、主演に抜擢されたアナ・トレントだ。同作と同じく、本作で50年ぶりに“アナ”の名前を持つ女性を演じることでも、ファンを再び沸かせている。 そしてフリオの元恋人であるロラ(ソレダ・ビジャミ)がピアノを弾く姿、シーツがはためく先に壁に漆喰を塗るフリオとミゲル、『別れのまなざし』のワンシーンなど、どの写真からも映画のなかに生きる人物たちの姿を見守るエリセ監督の温かな視線がうかがえる。 映画を愛し、物語を伝えることに全身全霊を注ぐビクトル・エリセの熱い想いとメッセージを、31年ぶりの新作『瞳をとじて』でじっくりと味わい尽くしてほしい。 ■<ビクトル・エリセ監督のディレクターズノート> 「私はどんな映画を作りたいのか?そして、それはなぜか? できるだけ短い言葉で正確に伝えるなら、答えはこうだ。 『私が書いた脚本から自然に花開いた、純粋で誠実な必然によって生まれる映画』 でも、この答えだけでは十分でないだろう。 だから『瞳をとじて』が必然として伴う“なにか”について説明したい。 そのためには概念の領域を掘り下げる必要があるが、私の意図を明確に宣言する。 もちろん、それはよき意図だ。 よき意図がよい結果を生むとは限らないと、わかっていたとしても。 プロットの細部を積み重ねた果てに、この映画が観客に向かって描こうとする物語は、 密接に関わる2つのテーマ“アイデンティティと記憶”を巡って展開する。 かつて俳優だった男と、映画監督だった男。友人である2人の記憶。 過ぎゆく時の中で、1人は完全に記憶を失い、 自分が誰なのか、誰であったのか、わからなくなる。 もう1人は、過去を忘れようと決める。 だが、どんなに逃れようとしても、過去とその痛みは追ってくることに気づく。 記憶は、テレビの映像としても保存される。 人間の経験を身近な形で記録したいという現代の衝動を、 なによりも象徴しているメディアだ。 映画を撮る者の記憶は、ブリキ缶の棺に大切に保管されたフィルムだ。 映画館のスクリーンから遠く離れて、 映像視聴メディアによって社会における居場所を奪われた、 それぞれの物語の亡霊たち。 この文章を綴る者の記憶と同じように、長く刻まれる。 これらの特性を内包した物語は、半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。 私は映画の脚本を、自分で書いている。 だから、私が人生において最も関心を抱いていることが、 作品のテーマだと考えるのは自然なことだ。 言葉では伝えきれないが、1本の映画を観た経験が主役となる 詩的な芸術性に属するものだ。 そういう意味で、『瞳をとじて』では映画の2つのスタイルが交錯する。 1つは舞台と人物において幻想を創り出す手法による、クラシックなスタイル。 もう1つは現実によって満たされた、現代的なスタイルである。 別の言い方をするなら、2つのタイプの物語が存在する。 一方は、伝説がシェルターから現れて、 そうだった人生でなく、そうあるはずだった人生を描く物語。 そしてもう一方は、記憶も未来も不確かな世界でさまよいながら、 いままさに起こっている物語だ」 文/山崎伸子