アパレル会社で養蚕 桑畑を不登校の居場所に
体をめいっぱい上に伸ばし、ノコギリを木の幹にあてる。ギコギコと動かし、10メートル近い桑の木を半分ほどに剪定(せんてい)していく。 無心で30本ほど切り終えると、手は痛いし、革靴とスラックスは泥だらけ。でも気分は何だか爽快だ。いつの間にかオレンジ色に染まっていた空が美しい。 「来てよかったです」。そう伝えると、後藤裕一さん(54)は記者を見てうれしそうに笑った。 ◆ 後藤さんの本業は、名古屋市のアパレル会社「大醐」の社長。素材にこだわった男性用下着やステテコなどを製造・販売していて、25人の社員がいる。 昨年からは、愛知県犬山市の約7600平方メートルの耕作放棄地を借り受け、養蚕業を復活させるプロジェクトに乗り出した。「衣類の原料となるシルクを自前の桑畑で生産する」。計画を発表すると、社員たちは目を丸くした。 11月、この取り組みを取材するため後藤さんに連絡すると、取材場所に指定されたのが桑畑だった。身長1メートル89の記者を見るなり、「その大きい木からいってみよう」とひと言。軍手とノコギリを渡され、予想外の剪定作業を任されたのだ。 ◆ 今年4月、桑の苗木を植える植樹会が開かれた。参加したのは、社員と家族のほか、不登校の子どもを受け入れるフリースクールの先生や生徒たち。作業を通じて徐々に和気あいあいとしていく人々の輪。その中に、生き生きとした顔つきに変わっていく不登校の生徒を見つけ、後藤さんは「よしよし」とうなずいた。 「いずれ社会に出るとき、誰かのために働いたという経験が糧になりますから」。不登校児たちには、今後も桑畑の手入れを手伝ってもらうという。 ◆ 後藤さんは小学6年の時、小牧市から転校した名古屋市の学校でいじめを受けた。上履きや体操着を隠され、翌日学校に行くと、机の上に置いてある。そんな日々が続いた。 「学校に行きたくない」。そう言いたくても、当時は母親が脳動脈瘤(りゅう)の手術を受けたばかり。家族も母親にかかりっきりで、誰にも言えないまま通学した。その時の苦しさは、今も胸の奥にこびりついている。 ◆ バブル経済崩壊後の不況に、リーマン・ショック……。1997年、父が創業した大醐に入社すると数々の荒波にもまれた。同業他社が次々に倒産する中、男性用下着に注力したり、新製品を開発したりして必死に生き残ってきた。 2014年に43歳で社長を継いでから直面したコロナ禍は、事業と自分を見つめ直すきっかけになった。「自分たちが扱っているシルクがどのように作られるのか、社員に実感してほしい」。そう思い、実行に移したのが日本の伝統産業でもあった養蚕だった。 社長になって交友関係が広がると、もう一つ気づいたことがある。「実は子どもが不登校で……」。身近な人たちから、こんな相談を受けることが増えたのだ。 「孤独を癒やせる場所をつくってあげたい」。3年前から、廃棄物をリサイクルして新たな商品を作る工作教室を開き、そこに不登校児を招く活動を始めた。桑畑は、会社の事業でもあり、傷ついた人を支える新たな場所でもある。 ◆ この日、記者が桑畑の剪定を手伝ったのは、来年できる桑の実を子どもたちが収穫しやすくするためだった。「また手伝いに来てもいいですか」。後藤さんに伝えると、もう一度うれしそうにほほえんでくれた。
【取材後記】
私自身も小、中学時代にいじめを受けた経験がある。親にも話せず、狭い世界に閉じ込められたような息苦しさ。後藤さんに打ち明けると、優しく、うなずきながら聞いてくれた。あの時、もし後藤さんのような人がいてくれたら……。今の自分にできることは、誰かのために手を差し伸べてくれる後藤さんのような人を記事にすることかもしれないと思った。 (渡辺歩希 25歳)