「子どもの遊び」からわれわれが学べること…「子どもの遊び」にはさまざまな工夫が隠れている
考える力をみるみる引き出す実践レッスンとは? 自分で「知」を生み出すにはどうすれば良いのか、いいかえ要約法、箇条書き構成、らしさのショーアップなど情報の達人が明かす知の実用決定版『知の編集術』から、本記事では〈じつは「子どもの遊び」は3つのパターンに分かれていた…子ども遊びの極意とは? 〉にひきつづき、「遊び」についてくわしくみていきます。 【写真】じつは「子どもの遊び」は3つのパターンに分かれていた…! ※本記事は2000年に上梓された松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』から抜粋・編集したものです。
よく遊び・よく学び・よく編集せよ
遊びというものは解放のようでいて束縛であり、束縛のようでいて解放であるという特徴をもっている。その両方がなければ遊びは遊びにはなりにくい。 また、一人遊びと二人遊びと集団遊びとのあいだには、微妙なズレがある。このズレは子供にとってはたいせつなもので、たとえば二人や集団で遊んだ楽しさをいつか一人で再現したくなるときに、子供はこのズレを意識しながら「一人演じ分け」という方法を習得する。ロールプレイの内在化がおこるのだ。 すなわち、楽しかった遊びを一人で再現しようとすると、そこには体験の「情報化」という作業が必要になる。楽しかった記憶をアタマの中で再構成する必要があるわけだ。カラダで体験した遊びはここでアタマの中に移っていく。これが情報化である。そこにはズレが生きている。 ついで、この情報化された体験を自分一人の遊びに振り分ける。それにはちょっとしたシナリオや舞台設定や役割の配分が必要になる。なにしろ複数で遊んだ体験を自分一人の遊びに変換するのだから、いろいろ工夫がいる。これが「編集化」なのである。編集術は、このように遊びやゲームのような発端と終結がある情報の流れを、いくつかの場面に振り分け、組み替えることに始まっている。まず情報化、ついで編集化、である。 逆に、一人遊びや二人遊びの体験を集団に拡張したいときもある。このときもきまって「情報化」と「編集化」をおこす。一人遊びの体験が情報化されて一般性をもち、それが編集化されて、さらに適応力をもつ。ここにもズレが生きてくる。そしてそこに新たな工夫が発生し、遊びはゲームとしてのシステム性をもつにいたるのだ。 「ごっこ」「しりとり」「宝さがし」には、このようなしくみがまことにうまく採りこまれていた。 子供の遊びには、われわれが学ぶべきことがいっぱいつまっている。とくに編集の方法にとって学ばされることが多い。 情報を編集するという目でみると、情報の特徴のつかみかた(ごっこ・しりとり)、その情報の再生のしかた(ごっこ、宝さがし)、情報の探し方や入手のしかた(宝さがし)、その情報の連絡のしかた(ごっこ、しりとり、宝さがし)、次の情報への進みかた(しりとり)、そして情報のマッピングのしかた(ごっこ、宝さがし)。 これらの遊びにはこうしたことがしっかりとビルトインされている。われわれは子供時代からこうした遊びを通して、編集稽古をしてきたといえよう。 そう考えてみると、結局、遊びとは編集そのものなのである。編集のない遊びはなく遊びのない編集もない。そういえるのだ。 すなわち、編集術の基本は遊びから生まれてきたものだった。いまはわかりやすくするため子供の遊びだけをとりあげているが、実は大人になってからの遊びにも、ほぼ同じことがあてはまる。 もうひとつ、子供の遊びで注目すべきは、そこには初歩的なルールが発生しているということだ。どんな遊びにもちょっとしたルールがつきもので、それがなければ「じゃんけん」も「鬼ごっこ」も成立しない。 遊びのルールというものは複雑すぎては成立しない。単純すぎてもダメである。地域によって解釈が大幅に変わってしまうようでもいけない。 では、どのようにルールが決まるのかというと、ちょうどコンピュータやマルチメディ アの技術世界と似て、ユーザー(各地の子供たち)が受け入れやすい度合に応じて、いわばデファクト・スタンダードで決まっていく。 こうして遊びはルールをつくっていく。ということは、編集もルールを自発させるという目的をもっているということだ。これを「編集的ルールの自発性」という。編集はルールを発見するゲームでもあったのだ。 ところで、「ごっこ」「しりとり」「宝さがし」という子供遊びの基本三型は、私も最近になって気がついたのだが、学習の基本三型にもなっている。「ごっこ」は模倣という学習の基礎を、「しりとり」は言葉やイメージのつながりを学ぶための基礎を、「宝さがし」はヒューリスティック(発見的)な思考やそのための準備をしていく必要性を、それぞれ学習するための基礎にあたっている。 そう考えて、編集工学研究所では1998年後半から東京大学・慶応大学・東京工科大 学、メディアファクトリーの共同研究として、この三つの基本型の遊びをつかった学習型ソフトウェアの研究開発にとりくんだ。「2+1 ( ツープラスワン ) 」プログラムという。3つの遊びを学習の基本型としてコンピュータ・システムに入れてみたのである。テストをしてみると、なかなか子供たちの評判がよい。それはそうだろう、これらはもともと子供たちが長い歴史をかけて創造したマスタープログラムだったのだ。 遊びの本質は編集にある。 ということは、逆に、編集の本質も遊びにあるということなのである。 * 連載記事〈「他人のふんどしで相撲をとる」、外国人に伝わるようにするならどう訳す? …「編集という方法」に求められる大事なこと〉では、雑誌や書籍の編集だけではない、「編集」についてくわしくみています。
松岡 正剛