禿頭王・肥満帝・助平ジジイ……歴代ヨーロッパ王に付けられたあだ名がひどい
絶頂期の17世紀フランスを治めた「太陽王」ルイ14世、恐怖政治でロシア皇帝の地位を確立した「雷帝」イヴァン4世など、かつてヨーロッパに君臨した王たち。彼らに付けられた特徴的な綽名(あだな)55個についてその由来と逸話を紹介した、日経新聞朝刊連載(2022年3月~2023年3月)の作家・佐藤賢一による歴史エッセイ『王の綽名』がこの度書籍化。先月11月より、日本経済新聞出版から発売されている。 そもそもなぜ多くの王に綽名が付いているのかは、前書きで説明がされている。古代末期の大移動でヨーロッパにやってきた、ゲルマン民族の末裔である王侯貴族たち。彼らは昔からそこに住んでいたわけではないため、土地に因んだ名を名乗ってアイデンティティとする発想にはなりにくい。血統や誰の子であるかが権威として重要視され、有力者の子は王家の呼び名を受け継いだり、父と同じ名を付けられたりする。それが繰り返され時代を経るごとに、同じ名前の王様が増えて紛らわしくなる。そこで区別のつくように、綽名が付いていったのだ。 たとえばイングランド王の名前の定番「エドワード」について、本書では3名取り上げている。若くして暗殺された後、ある奇蹟によって聖人に認定されたエドワード(在位 975~978年)は「殉教王」。名君の誉れ高く、ずいぶんと背の高かったエドワード(在位 1272~1307年)は「長脛王」。戦上手で黒い鎧を纏っていたといわれるエドワード(生1330~没1376年)は、「黒太子」(※父王より早く亡くなっている)。エピソードとセットで綽名を知ると、同じエドワードでもたしかに区別が付いて覚えやすい。 とはいえ、王たちの綽名はただ便宜的に付けられているわけでもない。そこには人々の思惑や感情、意外な事実も隠されている。 「禿頭王」こと西フランク王・シャルル2世(在位 843~877年)について、薄毛を揶揄するような文書は残されていない。しかも50歳過ぎの肖像を象った蝋印で、彼の髪はフサフサ。王冠や剃髪にまつわる綽名という説も存在するが、どちらが正しかろうと禿頭だったとはならない。だが遺産相続争いに絡み貪欲に領土を狙っていく禿頭王の生き方からは、〈男性ホルモン過多で、ゆで卵のような頭をテカテカ光らせる脂ぎった顔〉を、著者ならずとも想像してしまう。肥満帝ことフランク皇帝・カール3世(在位 876~887年)についても、太っていたと伝える古文書などは存在していない。ただ彼の怠惰な足跡を知ると、太っていなくとも綽名は「肥満帝」のままでいいだろうという気にもなる。 「こんな綽名の王様の家来は嫌だ」ランキングがあったら、上位に入りそうなのが「血濡れ女王」。イングランド女王・メアリー1世(在位 1553~1558年)は283人ものプロテスタントを処刑したことから、この物騒な綽名がついた。だが同じ宗教改革の時代、メアリーの父でプロテスタントを支持したヘンリー8世も、カトリックに対して弾圧を加えていたわけで彼女だけが残酷だったわけでもない。なのに酷い綽名を付けられた背景を追っていくと、血濡れ女王に悪役を押し付けた黒幕の存在が見えてくる。 宗教改革と共に世界の歴史に大きな影響を与えた出来事といえる、大航海時代。そこで重要な役割を果たした「航海王子」ことポルトガル王子・エンリケ(生1394~没1460年)は、自ら船に乗り込んで大冒険を演じたのかというと、さにあらず。船酔いが酷い体質のためほとんど海に出ることはなく、パトロンとなり造船所や天体観測所を整備するなど探検航海の事業化に尽力した。 「助平ジジイ」は、もはや「王」も付いていない潔さが、本書で紹介される綽名の中でも一際目を引く。生涯で50人以上の愛人と付き合ったというフランス王・アンリ4世(在位 1589~1610年)は、この綽名に相応しい人物ではある。ただしフランス人はフランス史上屈指の名君である彼に対し悪意を持っていたわけではなく、その好色ぶりも容認しているが故の愛称だったらしい。 その人のキャラを知っていてこそ、綽名のニュアンスや面白さが理解できるというのは、今も昔も変わっていない。そこで馴染みの薄い昔の王様の生涯と人となりをコンパクトにわかりやすく伝え、〈王が「征服」したのは、自分の人生だったのかもしれない〉(「征服王」)など綽名について独自の解釈も加えながら、読み手の興味を惹きつけていく。そんな本書で展開される、著者の綽名語り芸は見事なもの。直木賞受賞作『王妃の離婚』(集英社文庫)をはじめヨーロッパを舞台とした歴史小説の多い、佐藤賢一作品の入門編としてもオススメできる一冊だ。
藤井勉