天皇陛下と雅子さまが岡山の被災地で手渡した「新しい力」 「両陛下と話し、ようやく『復興』が終わった」
両陛下へ説明できたのは数分しかなかったが、強い印象があったのかもしれない。事業者を集めて説明会を開いた当時の写真など、中山さんが準備したパネル資料に目を通した雅子さまは驚いた表情を見せ、 「苦労されましたね」 と、深くうなずきながら中山さんに言葉をかけられた。 そして、ほほ笑みながら、こう話しかけた。 「8月に(説明会を)されたんですか。早いですね。(地域が復興して)本当によかった」 ■「もう助からない」2階で腰まで泥水が 地域の復興のための取り組みについて、中山さんが資料を整理し、だれかに説明したのは、両陛下が初めてだった。 6年前のあの日の夜、自宅がある地域に避難警報が出た。日付が変わった未明、自宅が浸水し始めた。 みるみるうちに1階の水かさは増し、冷蔵庫がひっくり返った。玄関の扉は水圧で開かず、外へ逃げ出すこともできなくなっていた。息子夫婦と3人の孫が寝ていた2階まで、あっという間に泥水が上がり、腰の位置まで水が来た。 泥水をかき分けてベランダに逃げるが、泥水は引かない。孫のうち2人は小学生、末の孫は生後10カ月の赤ちゃんだ。「もう助からない」と死を覚悟した。 赤ちゃんを抱き、子どもを守りながら、5人で迎えた朝。泥水に浮いたゴミがさーっと流れていくのが見えた。中山さんは、家族に声をかけた。 「水が流れている。助かった」 中山さんたちは昼過ぎ、自衛隊のボートに救助された。 翌日、経営する家具の製造会社へ行ってみると、機械も、納品する予定だった家具も、水に浸かっていた。 すべてがダメになっていた。それでも、取引先からも励まされながら、復興に向けて走り始めたのだった。
災害の後、街は次の水害に備えて河川工事をし、防災公園も整備された。中山さんの生活も、ほぼ被災前も状態まで戻った。 中山さんは話す。 「天皇陛下と皇后さまは、植樹祭が開かれた岡山市からこの真備に足を運んで、自分たちの話にうなずき、心から話を聞いてくださった。6年前に死を覚悟してから、復興のために走り続けた自分のなかで、ようやく『復興に区切りがついた。抱え続けた痛みと悲しみが終わったのだな』と思うことができて、ほっとした」 ■祈りを捧げる陛下と雅子さまの姿 天皇、皇后両陛下は今回、街づくりの活動から復興に尽力した高槻素文さん(76)や、水害に遭ったすべての住民に、5年をかけて手描きの絵に「元気をだそう」といったメッセージを添えた絵葉書を出し続けた中尾幸子さん(75)とも交流した。 中尾さんが準備した、20枚ほどの手描きの絵葉書をはさんだ手作りのファイル。そのページをめくりながら、雅子さまはこう言ってほほ笑んだ。 「いろいろありますね。もらったら嬉しいです」 陛下も「私にも、見せてください」と加わり、あたたかな空気が流れたという。 豪雨災害があった2カ月後、いまの上皇ご夫妻が真備の町を訪れ、それを引き継ぐように6年後の今回、両陛下が再び訪れた。 水問題の研究者である天皇陛下は、水害と河川の分野も専門だ。倉敷市の担当者によると、河川工事についてもよくご存じだったという。市の担当者はこう話す。 「おふたりとも、西日本豪雨に関する資料をお調べくださったようです。事前に読みこんでおられ、細かいこともよくご存じでした」 復興のために地域もがんばり続けているが、なかには疲れてしまう人もいる。 「しかし、犠牲者と地域の人びとのために祈りを捧げた両陛下の姿を目にして、まだがんばっていけると、みんなが力をもらったように感じました」(市の担当者) おふたりの訪問に際し、真備町の沿道には途切れることのないほど、歓迎する人びとが集まったという。 平成の皇室の想いは令和の両陛下に引き継がれ、人びととの心の交流は続いている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
永井貴子