<私の恩人>デーブ・スペクター テレビに出るきっかけを作ってくれた…あの名物プロデューサー
タレントとしても引っ張りだこのテレビプロデューサー、デーブ・スペクターさん(59)ですが、テレビに出るようになったきっかけは意外と知られていません。原点となったのはフジテレビ系「笑っていいとも!」。初出演から、およそ30年が経過した今でも、同番組のプロデューサーを務めた故・横澤彪(たけし)さんの考えが、デーブさんの教科書となっているといいます。 簡単に言うとね、1983年からアメリカ・ABCテレビの出張で日本に来てて、そこでテレビに出ることになったんです。 その頃は、日本のテレビに外国人がたくさん出てたんですよ。チャック・ウィルソンとか、ケント・ギルバートとか、ケント・デリカットとか。それを見てると、ボクだって昔は子役としてテレビの仕事もしてたし、「思い出づくりに、出てもいいんじゃない」と思ったの(笑) たまたま「いいとも」のプロデューサーだったフジテレビの横澤彪さんと共通の知り合いがいて、紹介していただいたんです。「いいとも」を放送しているスタジオアルタの7階にあるレストランで話をしたら、いきなり「来週、来てください」と言われたんだよね。 当時、ケント・デリカットとオスマン・サンコンが出てるコーナーがありまして、3人目の外国人として出演したんです。ボクとしたら、1回出るだけだと思ってたわけ。だから、おべっかも言わないし、遠慮もしない。そこで摩擦というのかな、タモリさんとのかみ合わないカラミがよかったのか(苦笑)、「また来週も来てください」となっちゃった。今でいう、ローラみたいなキャラだったんですかね(笑)。気が付いたらレギュラーとして、3年やらせてもらいました。そこから、出る側としても、日本のテレビに関わるようになっていったんです。 横澤さんとは、打ち合わせの時からいろいろと話しました。中でも、アメリカのテレビ番組の話をして盛り上がりましたね。今なら、BSもCSもインターネットもあるから簡単に情報が得られますけど、当時はそんなに便利じゃなかったから、ちょっとしたジョン万次郎というか(笑)、すごく興味を持ってボクの話を聞いてくれたんです。 それだけに、研究熱心でしたし、フジテレビの社風を象徴するような方でした。当時のフジテレビの試写室、20~30人ほど入ったらいっぱいになるようなスペースだったんだけど、そこで黒澤明監督の「乱」の試写会をやったりね。見終わったら、みんなでディスカッションするんです。 「笑っていいとも!」とか「オレたちひょうきん族」とか、バラエティー畑の人だから、別に映画担当でもないし、一言でいうと、そんなことやる必要ないんです。でも、少しでも、何かを取り入れようという思いが根底にあったから、後にフジテレビのキャッチフレーズにもなった「楽しくなければテレビじゃない」があったんだと思うんです。これは、突き詰めるところ、横澤さん個人のポリシーだったと思います。そして、今、ボクが何より心掛けてることでもあります。 最近、芸能界から“能(のう)”がなくなってきているなんてことを言ったりもします。だからこそ、エンターテインメントとは何か、その使命を考えていた“横澤さんイズム”みたいなものは、今でもボクの根幹となっています。 (聞き手・文責/中西正男) ■デーブ・スペクター 1954年5月5日生まれ。米イリノイ州シカゴ出身。上智大学への留学などを経て、83年に米ABCテレビのプロデューサーとして来日。フジテレビ系「笑っていいとも!」への出演をきっかけに、日本でもタレント、プロデューサー、放送作家としての活動を展開していく。現在、 日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」、TBS系「サンデージャポン」などに出演中。妻はエッセイストのスペクター京子。1日に3~5個の日本語を新たに覚えることを日課にしている。 ■中西正男(なかにし・まさお) 1974年大阪府枚方市生まれ。立命館大学卒業後、デイリースポーツ社に入社。大阪報道部で芸能担当記者となり、演芸、宝塚歌劇団などを取材。2012年9月に同社を退社後、株式会社KOZOクリエイターズに所属し、芸能ジャーナリストに転身。現在、関西の人気番組「おはよう朝日です」に出演中。