大和型が登場するまで「世界最大最強」 ナゾ多き最期も残骸は戦後に大活躍! 戦艦「陸奥」の生涯
戦間期にはお召艦の栄誉にも
「世界最大最強の戦艦」といえば、旧日本海軍の「大和」「武蔵」が想起されます。しかしこれらが完成する以前は、長門型戦艦がそのように呼ばれていました。 1921(大正10)年の10月24日は、そのような長門型戦艦の2番艦「陸奥」が竣工した日です。姉妹艦の「長門」やアメリカの「メリーランド」、イギリスの「ネルソン」などとともに「世界のビッグ7(世界7大戦艦)」にも数えられ、巨大な船体と主砲は特に、旧海軍の象徴でした。 え、これで竣工だと…? 完成度85%の「陸奥」(写真) しかし竣工の翌月、ワシントン海軍軍縮条約により、「陸奥」はアメリカとイギリスから「未完成艦」と指摘されてしまいます。対外的な竣工こそ前月でしたが、実は艤装工事は完了しておらず、艦の完成度は8割ほどだったとも。しかし日本側は譲らず完成艦と主張。アメリカとイギリスにも新造艦の建設を認めることで、なんとか「陸奥」の保有も認めさせたのです。 全長220mあまり、基準排水量3万3000トンあまり、41cm連装主砲4基8門搭載にして、最大速力は26.7ノット(約48km/h)。戦間期である1920年代には昭和天皇のお召艦になったほか、艦首の形状変更が行われています。 さらに1934(昭和9)年9月から2年間、「陸奥」は大改装を受けます。水中防御力を強化すべく、とりわけ弾薬庫付近は鋼板を3層化し、砲戦に備え、機関室やボイラー室の上部は命中弾に耐えられるよう、甲板が厚くされました。 ボイラーの換装や推進抵抗の軽減に寄与する艦尾の延長により、速力はやや低下したものの航続距離は約5800km(16ノット航行時)に延び、また高角砲の口径拡大など対空火力も強化されました。
戦艦の時代は終わりつつあった
「陸奥」の初陣は、1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃でした。ただ、この際の主力は空母機動部隊であり、「陸奥」は戦艦部隊として小笠原諸島近海まで航行しました。 翌1942(昭和17)年6月には、勝敗の転換点となったミッドウェー海戦へ後方支援のため参加。「陸奥」にアメリカ軍との直接的な交戦はありませんでしたが、この海戦で日本は主力空母を4隻も失う大敗を喫します。「陸奥」は救助された空母「赤城」の乗員を生還させました。 以降、「陸奥」は艦隊を組み南方へ進出しますが、海戦の主体が航空機を用いた空襲に移りつつある中で砲戦は起きず、加えて俊敏な駆逐艦隊との作戦行動においては“足手まとい”となってしまいます。燃料も不足しがちになり、「陸奥」は基地で待機することが増えていきました。 1943(昭和18)年2月、「陸奥」は呉軍港の南、現在の山口県岩国市にある柱島の泊地へ移動。それから4か月後の6月8日正午過ぎ、3番砲塔付近から煙が上がったかと思うと突如にして爆発、船体は真っ二つに裂け、あっという間に沈没してしまいました。約1500人いた乗員のうち8割が死亡する大惨事でした。 「陸奥の爆沈」は極秘とされ、特に事故を目撃した戦艦「扶桑」の乗員に対しては箝口令が敷かれました。爆発の原因については今日に至るまで解明されておらず、主砲弾の自然発火説や乗員の放火説などが語られています。ただ旧海軍では過去にも、火薬庫の爆発事故によって戦艦「三笠」や巡洋戦艦「筑波」などを喪失しており、「陸奥」でも同様のことが起きたのではないかともいわれています。