日本人経営ビール会社第一号の名前は「渋谷ビール」なのに醸造地は大阪の堂島だったのはなぜ!? 飲んでも読んでも美味いビールの小話!
『日本のビールは世界一うまい!』#2
スーパーの酒売り場、あるいは酒場のサーバーでも、高品質なビールはいつでもどこでも提供されている。さらに発泡酒や新ジャンルを含めて、新製品が次々と販売されるのは日本市場だけだろう。そんな日本のビール産業は、いったいどんな歴史を辿ってきたのか。 【画像】キリンビールの前身に当たるジャパン・ブルワリーに増資した渋沢栄一
『日本のビールは世界一うまい! ――酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書) より、一部抜粋・再構成してお届けする。
渋谷ビールと三ツ鱗ビール
スプリングバレー・ブルワリーから現在のキリンビールの前身ジャパン・ブルワリーへ、という系譜とは別に、文明開化期には日本人が相次ぎビール醸造に挑んでいった。 少し、時計の針を巻き戻す。 スプリングバレー・ブルワリー開設から2年後の1872年(明治5年)、豪商の渋谷庄三郎が大阪の堂島でビールを醸造し、「渋谷ビール」として売り出した。 アメリカ人醸造技師を雇い、居留地の欧米人や外国船、さらには開店したばかりの洋食店などに売り込んだ。この渋谷ビールこそ、日本人経営によるビール会社第一号である。 一方、外国人居留地のある横浜や商都の大阪ではなく、地方都市、山梨県の甲府でビール醸造を始めたのが野口正章だった。野口家は滋賀出身の近江商人であり、もともと日本酒や醬油を醸造していた「十一屋」を営み、その醸造所の一つが甲府にあったのだ。 十一屋の跡取りだった野口は、勧業政策に熱心だった山梨県令の藤村紫朗の勧めから、ビール醸造を決意。横浜のスプリングバレー・ブルワリーからウイリアム・コープランドと彼の助手だった村田吉五郎を招請してビールの醸造に挑戦していく。コープランドは忙しいので、主に村田が指導したとみられる。 野口は1874年(明治7年)ビール製造を許可され、「三ツ鱗ビール」として発売した。山梨県近代人物館のホームページでは、三ツ鱗ビールが「東日本で最初の日本人によるビール醸造」と紹介されている。 商標は頂点を上にした正三角形のなかに、赤い正三角形が上に一つ、下に二つ重ねて三ツ鱗とした。縦に「酒」と記された下には「PALEALE」と表示されている。エールだから、三ツ鱗ビールは上面発酵であることが分かる。ペールエールは現在のクラフトビールで人気のジャンルだ。 1875年の京都博覧会で、三ツ鱗ビールは品質が評価されて銅賞を受賞している。ちなみに、三つの三角形の鱗のラベルについては「一見(イギリスのビール醸造会社バス・ブルワリーの)バスビールと見間違うようにした」という批判もあった。 ところが、渋谷ビールは1881年に、三ツ鱗ビールは翌82年に、ともに廃業してしまう。それでも両社からは日本人の醸造技師が育ち、明治期におけるビール産業振興に貢献することになる。事業は失敗しても、難しい技術への挑戦により、人は輩出されていく。