痛恨「一塁送球」から7年半 悪夢の甲子園に指導者で再び センバツ
3月18日開幕の第94回選抜高校野球大会に初出場する和歌山東の山根翔希副部長(25)は、かつて甲子園で「悪夢」を見た。市和歌山の二塁手だった2014年夏、痛恨の「一塁送球」でサヨナラ負けを喫した。試合後に直接取材し、号泣していた姿が忘れられない私は、どうしても知りたかった。山根さんの「その後」と、指導者として臨む甲子園への思いを――。 試合前のノッカーとして再び甲子園の土を踏む可能性のあるセンバツ開幕まで1カ月を切った2月22日。「あれからすごい年月がたっていますけど、感覚的にはあっという間でした」。和歌山市内で向き合った山根さんの優しそうな表情と誠実に答える姿に、7年半前の球児時代の面影が重なった。 ◇イレギュラーで「頭が真っ白」 2014年8月13日。市和歌山は第94回全国高校野球選手権1回戦で鹿屋中央(鹿児島)と対戦した。試合は1―1で延長に入り、十二回裏に1死一、三塁のピンチを迎えた。一打サヨナラの局面で、内野陣が敷いたのは中間守備。二塁手と遊撃手は強い打球が飛んでくれば二塁封殺―一塁転送の併殺を狙い、当たりが弱ければ本塁に送球して三塁走者の生還を阻む。守りのチームだった当時のメンバーの中でも、半田真一監督が「ピカイチ」と言うほど、山根さんの守りは定評があった。 1ストライクからの2球目、山根さんの前に転がった打球は詰まり気味の平凡な当たりだった。だが、捕球直前にイレギュラーしたことで「頭が真っ白になった」という。体勢を崩しながらグラブに収めたが、とっさに投げた先はベースカバーの遊撃手が右手を挙げていた二塁でも、本塁でもなく、捕った時に体が向いていた一塁だった。サヨナラの走者が生還し、ベンチから飛び出して喜ぶ相手を見て我に返った山根さんは、4万6000人の観客が見守るグラウンドに崩れ落ちた。 ◇「自分のせい」号泣するも腰下ろさず 私は高校野球取材を約10年間担当し、甲子園でさまざまな「悲劇」を見てきたが、その中で最も印象に残っている。予想だにしない幕切れに加え、試合後の山根さんの姿が忘れられないからだ。 グラウンドで泣き崩れて仲間に支えられていた山根さんは、インタビュールームに移動してきても、涙は止まらなかった。声を掛けるタイミングをうかがう報道陣の中で、意を決して最初に質問したのは私だった。「知らない間に一塁へ投げていた」「自分のせいで負けてみんなに申し訳ない」。立っているのもつらそうだったため、何度かベンチに腰掛けるよう促したが、首を横に振り、涙で言葉に詰まりながらも一つ一つ丁寧に答えてくれた。 山根さんのことは、その後も気になっていた。大学進学後に後輩たちの応援に甲子園に来ると聞き、アルプススタンドに探しに行ったこともある。試合後3日間は食事が喉を通らず、体重は大会の前と後で約5キロも減ったことなど、当時の苦悩を明かす記事を目にすることもあった。だが私自身は直接取材する機会はなく、今回が実に2750日ぶりの「再会」だった。 なぜ、あの時、立っていたのか――。聞いてみると、山根さんは「ぼうぜんとしていて記憶にない」としたうえで、当時の心境を推し量りながらこう続けた。「部長からも『座ってもいい』と言われたけど、しなかった。自分のせいでチームが負けた罪悪感と、記者の方が立っているのだから自分もちゃんと立って話を聞かないといけないと思ったのでは」 ◇「無意識」で決めた進学と教職への道 自身初の甲子園に先立つ高3の春。山根さんは半田監督との進路面談で、卒業後は就職し、本格的な野球は高校までにするつもりだと伝えていた。「プロに行ける力があるわけではなく、高い学費を払ってまで大学で野球をしなくてもいい」と考えていた。だが、鹿屋中央戦の約1週間後に運命が大きく変わる出来事が起こる。近畿地方を中心に夏の甲子園を中継する朝日放送の番組「熱闘甲子園」の取材を受け、「野球を続けますか」と聞かれると、思いも寄らぬ言葉が口を突いた。 「進学します」 甲子園から戻った後、進路について改めて考えたわけではない。無意識に発した言葉だった。「なぜ、あの場で言ったのか分からない。ただ、自分の野球人生が負けで終わるのが嫌だという気持ちがどこかにあったのかもしれない」と当時の心境を振り返る。 だが就職志望だったため、進学の当てはない。慌てて半田監督にも相談。甲子園出場の実績もあり、阪神大学リーグ2部に所属する桃山学院大(大阪府和泉市)に合格することができた。甲子園と同じグラブを使い、1年秋から二塁の定位置を確保。在学中には2部ながら優勝も経験した。 野球に打ち込む傍ら、教員免許取得を目指した。もともとは、卒業後は高校で学んだ商業の知識を生かして金融やIT業界で働きたいと思っていた。だが、入学直後のオリエンテーションで教職課程の説明を聞き「ビビッときた」。高校野球にもう一度、携わりたいという思いが一気にわき上がった。商業科の教員免許を取得し、卒業後は地元の和歌山で高校野球の指導者としての第一歩を踏み出した。 ◇伝えたい「あの夏」の経験 19年に最初に講師として採用された新翔で、野球部の副部長に就任。当時は部員10人で、夏に3年生が引退すると7人になった。大会では他部から助っ人を借りたが、練習試合には山根さんが「9番・レフト」で出場。文字通り選手と一緒に汗を流しながら教えてきた。昨年4月から指導する和歌山東でもノックを打つだけでなく、鮮やかなグラブさばきで守備の見本を見せる。「言葉だけでは伝わりにくい部分もある。実際にやってみせた方が選手が動きをイメージしやすい」と説明する。 指導者としてもう一つ意識しているのは、あの経験を伝えることだ。昨秋の近畿大会で準優勝した後にその機会が訪れた。気が緩んだのか、グラウンドに片付け忘れたボールが数球残っていたため、練習後のミーティングで選手に訴えた。「試合の1球も大事やけど、普段から1球の執着心を持ってほしい。高校生の時、俺のせいでチームは甲子園で負けた。同じ経験をしてほしくない」。憧れの舞台は楽しさや喜びだけを与えてくれるのではなく、時には一生の傷を負うこともある。経験者の言葉は重たい。 ◇「あのプレーがあったから今がある」 今年のセンバツで指導者として再び甲子園に戻る。「できるならもう一度、グラウンドに立ちたい。もしノッカーとして入れるなら甲子園の雰囲気などを伝え、選手にも『いつも通りやろう』と言いたい。いろんな思いがこみ上げてきそうだが、まずは自分に『いつも通り』と言い聞かせてノックを打ちたい」と笑う。 最後に尋ねた。「もし、2750日前の自分に声をかけるとしたらどんな言葉か」。山根さんは教員になることを伝えた際に、半田監督から言われたメッセージをそのまま口にした。「つらい思いをしたけど、長い人生に目を向けた時に指導者として和歌山の野球や球児に貢献することができたら、あの経験は失敗ではなく、成功になるんじゃないか」 今も「一塁送球」の映像は見ることができないという。だが、「あのプレーがあったから今の自分がある」と前向きに捉えている。7年半を「あっという間」と言えるのは、充実した日々を送れているからこそだろう。確かにあの時、白球を投げる方向は間違ったかもしれないが、山根さん自身、人生の選択は正しかったと思っている。【安田光高】 ◇全31試合をライブ中継 公式サイト「センバツLIVE!」(https://mainichi.jp/koshien/senbatsu/2022)では大会期間中、全31試合を動画中継します。また、「スポーツナビ」(https://baseball.yahoo.co.jp/hsb_spring/)でも展開します。