「不肖」誕生に2人の辣腕(らつわん)編集者 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<2>
«「不肖・宮嶋」のキャッチフレーズが初登場したのは平成3年。湾岸戦争後に派遣された海上自衛隊(海自)の掃海部隊の現地ルポがきっかけだった» 海自がペルシャ湾に掃海艇を派遣するというので、「週刊文春(文春)」の取材で現地に行くことになったんです。(自衛隊が初めて本格的に海外派遣され、道路整備などで貢献した)カンボジアでの国連平和維持活動(PKO)の前年で、まだ自衛隊の実動部隊の海外派遣に否定的な雰囲気のころでした。 «湾岸戦争で当時の海部俊樹内閣は憲法解釈から米国側が求める自衛隊派遣を実施できず。計130億ドル(当時で約1兆8000億円)もの巨額支援を負担したが、世界から「小切手外交」と揶揄(やゆ)され、さらに衝撃的なできごとが…» (イラク軍による侵攻を受けた)クウェートが米国の新聞に出した感謝の広告に、日本の国旗がなかったのです。これでやっと政府は重い腰を上げ、戦争終結後に海自の掃海艇を派遣した。当時は機雷の掃海作業がとても危険な仕事という認識があまりなく、文春の編集者は私が送った原稿を「機雷モ見エズ、雲モナク…」と、軍歌(勇敢なる水兵)の一節、「煙も見えず雲もなく…」のパロディーにしたんです。 構成したのは文春のグラビアデスク、西川清史さん(後の文芸春秋副社長)と担当編集者だった勝谷誠彦(まさひこ)さん(故人)。軍歌調で「何も起こらず役立たず」みたいな感じでした。さすがに「役立たず」はひどいので削ってもらったのですけど。 そのときの一人称が最初、「宮嶋三等兵」でした。漫画「ロボット三等兵」から取ったんですね。でも「宮嶋三等兵、かく戦えり」では語呂が悪い。それで「不肖・宮嶋」にしたんです。「不肖・宮嶋、かく戦えり」みたいに。だから「不肖・宮嶋」と最初に付けたのは西川さんと勝谷さんで間違いありません。勝谷さんはずっと「名付け親は自分」と言ってました。まあ勝谷さんで構わないんですけど…。それにしてもそのときの文春の原稿はすごかった。ひとつひとつが詩のようになっているんです。これは勝谷さんの才能でしょう。 «「不肖・宮嶋」はこうして誕生した。自著「不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス」(新潮社刊)のあとがきで、勝谷さんは「宮嶋茂樹の原稿は私が書いている」と記しているが、これには驚いた。一緒に同行した平成8年の「第38次南極地域観測隊」で、観測船「しらせ」の船室で毎晩遅くまで原稿を山のように書いていた宮嶋さんの姿を見ていたので…»