【山口県】彼らの声を伝える使命 語り部・折出眞喜男さん
1945年、徳山のまちが一夜にして焼け野原になった徳山大空襲、広島でおよそ14万人、長崎で7万人の命を奪った2つの原子爆弾投下など各地で甚大な被害を生んだ戦争が終戦した。
戦後80年、後世につなぐ
折出眞喜男さん(93)は当時、広島の爆心地からたった1キロほどの場所で日々、建物疎開作業をしていた。 中学2年だった折出さんは広島県呉市から、広島市の8キロ南東にある坂町に疎開していた。通っていた旧修道中では学業ではなく、空襲で火災が広がらないようにするためにあらかじめ建物を壊しておく建物疎開に従事。 その日、いつも通り自宅から電車で作業場所に向かうはずが、母親が寝坊してしまい電車に乗り遅れた。空襲警報が発令される中、坂駅で電車を待っていると、太陽に照らされた爆撃機B29が飛来。白い落下傘が投下された。 その直後、あたりが閃光に包まれ、爆風とともに待合室のガラスは割れて、立っていられないほどの衝撃だったという。 翌日、安否が分からない親戚の女児を探しに、被爆重症者が運ばれる近くの小学校に向かった。そこには火傷で体がただれ、細く息をする同級生が横たわっていた。折出さんはその姿に何も声をかけられず、その場を離れた。翌日にはその同級生の姿はなく、あとで亡くなったと聞いて今も悔やんでいる。 その後も女児を探してまわったが、子どもを助けようと防火水槽に上半身を突っ込んで亡くなっている母と子、川に浮かぶ大量の遺体を船で集める陸軍など、あまりにも悲惨な光景を目にしたという。 この原爆投下で折出さんは136人の同級生を失った。「この日、遅刻しなければ。生きていることが申し訳ない」、その想いを抱え、長年生きてきた。
終戦後、軍国主義だった日本が突然民主主義になり、戸惑いながらも戦後を生きた折出さん。 建設業を手伝い、その後に勤務した自動車販売会社では支店長になった。仕事の縁で周南市に移り住み、住宅会社などで働きながら、ロータリークラブで社会活動にも取り組んできた。 戦争の語り部として、当時のことを後世に伝える活動を始めたのは戦後70年近く経ってから。ロータリークラブの卓話で、初めて自身の経験を人に語った。 この話を知った同市の岐山小から声がかかり、小学生へ戦争の悲惨さや「絶対に3つ目の原爆を使わせてはいけない」というメッセージを伝えた。今も年に1度続けている。
このほかにも山口市にある原爆被害者を支援する(財)山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑などでも体験を伝える活動に取り組んでいる。 語り部として戦争の経験を伝えるようになって、亡くなった同級生たちへの後ろめたい気持ちが少しずつ和らぎ、「自分が生き残ったのは、“戦争は絶対にしてはいけない”ということを伝え続けていくためだ」と使命感は強い。 戦後から80年経ち、当時を語ることができる人は少ない。折出さんは「自分たちの話を聞いた子どもたちが、きっと後世につないでくれる。そう信じてこの想いを伝え続けていきたい」と願い、語り部を続けている。