「写真で見る昭和の風景」経済成長とともに国産バイクも高性能化【1950年代半ば~1960年代】
モータリゼーションの発展と、国内2輪メーカー淘汰の時代
零細規模のものから中小メーカーまでが乱立した、1950年代の国内2輪車産業。その中から、営業力や技術的なセンスを活かして成長するメーカーと、傾き始めて廃業するメーカーとの差が明確になっていくのが1950年代後半から1960年代にかけてのことだった。ここでは、そうした時代の背景を映す写真とともに、成長途上の日本のモーターサイクルの歩みをを追ってみたい。 【画像17点】スズキ・コレダ、ホンダ・ドリーム……1950年代後半~1960年代の日本を走っていたバイクを写真で解説 *以下、写真の説明は画像ギャラリーの順番に応じています。 ■混雑する丸ノ内界隈/1950年代後半 皇居の外堀通りと平行する東京都千代田区丸の内側の本郷通り。1950年代後半のモータリゼーション時代に入ると都心の交通渋滞が常態化し、ドライバーからは路面を共用する都電への非難が上がり始めた。その結果、美濃部亮吉東京都知事(当時)は1967年から都電を逐次廃止していく。そして現在、専用軌道の多い荒川線(早稲田~三ノ輪橋)だけが残っている。自動車の登録ナンバーはまだヒト桁で、5が小型乗用自動車。この数年前までのタクシーはVWやヒルマン、ルノーなどの輸入車が多かったが、徐々にクラウンなどの国産車が登場し始める。 ■125ccで築地に通うダンナ/1957年 東京都北区滝野川から毎日、中央区築地市場までの往復24kmを仕入れに通う魚屋の主人がまたがるのは、2年ほど前同業者に勧められて買った1955年型で2サイクル125㏄のコレダST1(スズキ)。「数十キロもの鮮魚を積んで帰ると自転車で片道1時間だが、コレだと20分ほどで戻れるので体が楽だ」と、走行1万7725kmの愛車にベタホレ。維持費はガソリンとオイル代が主で月1500円前後という。1954年から許可制になった125㏄(当時)は、中小商工業者に大きく支持され活用された。 ■高性能と個性の「コレダ」/1956年 写真のスズキ・コレダTT250は、日本初の2サイクルツインで18psの高性能を誇った。デザインの担当は当時静岡大学教授だった豊沢 昇。スズキからは「車両価格は少々高くなっても構わないから、ひと目でコレダと分かるデザインを」との注文を受けたという。その結果、バイクの顔を意識した特徴的な巨大ヘッドライトや流線型のウインカーボディ、フィン形状のテールデザインなどが盛り込まれ、二輪のキャデラックと評される個性的なスタイルとなった。当時価格の23万5000円は、単気筒OHCのホンダ・ドリーム250MEより4万3000円も高かった。 ■滑る敷石路面を下るライダー/1950年代後半 敷石と都電のレールで滑りやすい路面(ベルジャンロード)の、東京・文京区の切り通しを下るホンダ・ドリームC70。濡れたレール上を横切るには細心の注意が必要だった。この区間は明治時代に湯島天神と根生院の間を市電(上野広小路~本郷3丁目間)が通るために掘削された坂で、両側には当時の土留めの石垣が一部残っている。この線路には系統No16=大塚駅前~錦糸町間と、No39=早稲田~厩橋(うまやばし)間という2系統の都電が走っていた。 ■多摩川大橋上を行くスーパーカブとミゼット/1950年代後半 第二京浜(国道1号)多摩川大橋上。スーパーカブの横と後ろは1960(昭和35)年型のダイハツミゼットMP3。2ストローク強制空冷単気筒エンジンは305㏄で12馬力を発揮。リヤは油圧ブレーキだったが、フロントブレーキはなく、事故で鼻を潰したMP3は当時珍しくなかった。 バイクは戦後、簡便2輪トラックとしてスタートしたが、1950年代後半になると積載量の多い軽三輪車がその役を担い。125㏄以上のバイクはスポーツ車のカテゴリーに特化していった。 ■ホンダC70で箱根へデート!?/1950年代後半 ホンダ初のツイン、ドリームC70(250㏄/1957年)で、国道1号線を箱根に向かうアベック。神社仏閣式の角張った形状は、薄型鋼板の強度を上げる必要から生まれたデザイン。流麗な形状のサイドバックは流行品のひとつ。自動車が一般人に買えるようになるまで、バイクは夢を乗せて遠乗りに使われた。 1955年の国内自動車保有台数は157万1740台で約半分がトラック。乗用車の大部分は外車だった。また1950年代には、そうしたアメリカ軍等からの払い下げの外車を利用した時間貸し自動車業として、会員制の「ドライブクラブ」(レンタカー事業の前身)が流行ったが、事故やトラブルの多さなどが問題化した。