60歳で定年した夫が毎日家にいる...!9歳年下の妻が夫に対するリスペクトを失った理由とは?
平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。 そっと耳を傾けてみましょう……。
第66話 アフターオシドリ夫婦【前編】
――ああ、イライラする。 私は、まだ体の芯に熱が残っていることを感じながら、夫に気づかれないようにハンカチで額の汗をぬぐった。 4日前から風邪をひき、珍しく38度が2晩続いた。50代に入って、急に体力がすとんと落ちたような気がする。 それでも、こうして夫と並んだ姿がスーパーの窓に写ると、やっぱり私のほうがずっと若い。 悟志さんは60歳。9歳も離れているし、結婚前は上司と部下という間柄だったから、ずっと私のほうが下、という関係性だったように思う。彼はいつだって私に指示し、自分の希望を通す。 今日だって、私が病み上がりだとわかっているのに、自分の通院についてくるように命じた。確かに悟志さんは去年の夏に脳梗塞になり、一命はとりとめたものの、3カ月に1回の通院がある。右手にしびれもあって、人前でカルテを書いたりするのが億劫なのだろう。気持ちはわかるけれど、こちらの体調もお構いなし。あまりにも横柄というものだ。 彼が60歳の定年で、再雇用を希望しないときいたとき、私は絶望的な気持ちになった。たしかに、義両親からゆずられた4台だけのコインパーキングがあり、年金や貯金、退職金を駆使すれば生計は立つだろう。でも問題はそこじゃない。一人娘の雪乃は去年結婚し、海外転勤になった夫に帯同してしまった。つまり家には私と悟志さんの二人きり。 これ以上の怪談があるだろうか。 「おい、はやくしろ、予約の時間に遅れるだろう」 「……はいはい」 私はうんざりしながら、初夏の陽気のなか、まだ重い体を押してついていく。
定年後が長い
「えー! 朋子の旦那さん、会社辞めちゃったの? じゃあずっと家にいるってこと? これから20年以上あると思うけど、本気?」 「だよね……こっちがききたいよ。ちょっと病気をしたっていっても、まだまだしっかりしてるんだし、仕事をしたほうが本人も生活に張りがでると思うんだよね。会社以外に人付き合いが多かったタイプでもないし、どういうつもりだろ」 短大の同級生の沙織と晶子とは、半年に1回くらいはこうしてランチに出かける。四半世紀以上の付き合いだから、なんでも話せる仲。早くに結婚、出産した私とは違い、沙織は独身生活を謳歌し、新卒から勤めている会社ではいつのまにか課長に昇進。晶子は30代で結婚して出産、まだ子どもたちは中学生。3人ともライフステージのタイミングや状況が違うのがかえって幸いし、励ましあいながらやってきた。 「ひえー、想像つかないな。うちに直樹くんがずっとうちにいて、3食作るのかあ……無理無理。もうさ、朋子は友達も多いんだし、毎日ずっと外に出てなよ」 「そんな無茶な……もうこっちも体力ないし、疲れがなかなかとれなくて。とても遊びまわれそうもないよ」 晶子の旦那さんは年下で、たしか47、8歳くらい。すらっとした若々しいひとで、うちの悟志さんとは世代が違うっていう感じ。おまけにお子さんが中学生じゃ、がむしゃらに働いている時期だろう。すっかり老後モードの私とはテンションが全く違う。 「お~いやだいやだ、老いた夫にずうっと仕えるなんて。いっそ私みたいに独身になったらどう? 気楽よ、極楽よ。ま、でもいざってときにちょっといいホームに入れるくらいの資金準備は必要ねえ。最後に頼れるのはお金よお金」 沙織が前菜のテリーヌと白ワインをもりもりと平らげながら笑う。まったくその通り。ひとりのほうがずっといいと思うものの、現実問題、別れる勇気もお金もないのだ。 「あーあ……。今朝もさ、前から言ってあるのに、『どこ行くんだ、俺の昼めしは? 何時に帰るんだ?』って。もうなんかうんざりして、昨日の夜のカレーをあっためなおしてって鍋を出してきちゃった。お米は炊いて、お漬物は切って。そしたらぶつぶついいながら、テレビの前に戻っていったわ。その姿を見たらいろんなことを後悔したわね。昔はさ、ちょっと強引で頼りがいがあって素敵、って思ったのに」 「あんなにオシドリ夫婦だったのに、その言いぐさ……。だーからさ、あの時、有利な条件で離婚しときゃよかったのよ」 沙織の言葉に、とっさに反応が遅れて、私は真顔で白ワインを一口飲んだ。 まったく、すべてを知っている友人というのはたちがわるい。この1カ月、考えないようにしていたことを、あっさりと言い当てるのだから。
小説/佐野倫子 イラスト/Semo 編集/山本理沙
佐野 倫子